【1】門を出(いず)れハ 我も行く人 秋の暮れ 」
丸亀市民俳句会によって昭和51年10月に建立されました。揮毫(筆跡医)は蕪村のものをそのまま彫刻しました。
与謝蕪村は、『奥の細道』で有名な松尾芭蕉の後に出た俳人で、芭蕉をとても敬愛していました。京都の金福寺に芭蕉庵を再興するなど、蕪村のお墓もこの金福寺境内にあります。
この「門を出レバの句」は蕪村が妙法寺を去ってから6年後の59歳の時の作で、安永三年(1774)の『蕪村自筆句帳』637に出典があります。
一方、松尾芭蕉には「この道や行く人なしに秋の暮れ」という句があります。蕪村は、この句に対し、日常生活の場(門)を一歩出て、秋の夕暮れの街頭に立てば、自分もただの道行く人の一人となり、ひとしお寂しさを覚えるというような情趣が味わえます。
平成12年までは、毎年12月25日の蕪村翁の命日に、その業績をたたえ、その遺徳を偲んで「蕪村忌俳句会」(丸亀市民俳句会主催)が妙法寺で開催されていました(現在は開催されていない)。
【2】長尻の春をたたせて棕梠(しゅろ)の花
妙法寺中興四百年を慶讃して、新たな蕪村句碑として、この「長尻の」句碑が、当寺の大岡真淳住職と檀信徒総代の発願で、平成12年4月に建立されました。石碑の揮毫は妙法寺中興第18世・大岡真淳によるものです。
丸亀城の築城が始まったのが慶長2年(1597)です。この城下町整備の一環で妙法寺も現在の地に観音寺市の坂本郷から生駒親正公の命に世より、現在の丸亀の地に移転した。従って、丸亀城と妙法寺は同じ歴史を歩んでいるということになります。
さて、石碑の句は、与謝蕪村(よさぶそん・1716-1783)が、妙法寺に逗留しながら『蘇鉄図』『寒山拾得図』『山水図』などを描き上げ、明和5年の初夏4月に讃岐香川から京都へ帰るとき、当山で俳句を詠み残したものです。
『夜半亭蕪村』に「さぬきに三とせばかりありて、京(京都)へ帰るとて留(りゆう)別(べつ)也」とあります。留別(りゅううべつ)とは旅人があとに残る人に別れを告げること。
讃岐香川での様々な思い出を胸に、あしがけ讃岐に3年、少々長く逗留しすぎたことを詠んだ句です。
長尻句の石碑は以前に棕梠が植えられていた所に建てられました。棕梠はヤシ科の常緑樹で、平成時代になり、山門から入った右側(北側)に1本植えられていいます。