同文を以下のブログにもアップしています。
https://ryogo1977.blogspot.com/2020/03/blog-post_18.html
カリー寺基金を企画した理由について、その一つは、以前、活動報告でも書かせていただいたことがあります。なぜ地域に助成するという企画を立てたのかということについて、その意味について書きました。
https://camp-fire.jp/projects/211382/activities/115644#main
このカリー寺基金には、もう一つの側面があります。それはファンドレイジング―協賛の募集および、クラウドファンディングによる資金集めをしているということです。前者は、お金を地域に「渡す」というチャレンジ。後者は、地域や多くの人からお金を「渡される」「預かる」「寄付される」というチャレンジです。今回は、この後者の点について、少し言葉を重ねてみたいと思います。
●僧侶は「ファンドレイザー」でもあった。
このクラウドファンディングは、私(住職)にとっては、ある意味で「僧侶としてお金集めをする意味を問う」というチャレンジでもありました。古来より、日本では僧侶が寄進を集めてまわる「勧進」などが知られています。勧進については、このキャンプファイヤーのページでも紹介されていました。
“ちなみに、「クラウドファンディング」という言葉自体は比較的新しいものですが、不特定多数の人から資金を募り何かを実現させるという手法自体は古くから存在していました。海外では美術品などのアート分野で寄付を募る取り組みや、日本では寺院や仏像などを造営・修復するために個人から寄付を求める「勧進(かんじん)」などがその例です。”
(https://camp-fire.jp/crowdfunding より)
古代・中世には寺院や仏像の建立・再建の他、道路や橋等の公共事業なども「勧進」によって行われることがありました。弁慶の勧進帳等の逸話等でも知られています。
そういった意味では、そもそもの僧侶の活動とこのクラウドファンディングということは、一定の親和性があるものという言い方もできるのかもしれません。現在でも、お寺の運営・維持も多くのケースが「お布施」(寄付)によって成り立っています。また大きな工事や、事業になるとそのたびにお寺は「寄進」を募ったりします。
つまり、僧侶の仕事とは、ある面で「ファンドレイザー」という一面をもってみることもできるのではないかと思っています。
●寄付のわからなさ ― 幼いころから触れていた「お寺へのお布施」についての問い
上述のように僧侶は古来よりいただいたお布施によって生活をさせていただくとともに、お寺の運営や維持のための寄付を募り、預かるという、いまでいう「ファンドレイザー」の役割を担っていました。
しかし、お寺に寄せられる「布施」や「寄付」について、私自身は以前から抱えている疑問がありました。お寺に生まれ育って、子供のころから、法要や日常においてお寺に寄せられるお布施や、ご寄付の様子を見ながら、受け取り手側(お寺側の人間)である私にとっては、「どうして檀家さんはお布施をされるのだろうか?」「なぜこの寄付をしてもらえるのだろうか?」という疑問が頭のどこかにありました。
いま、あえてその疑問や感覚を言葉にすると、次のような言い方もできるかもしれません。
対価や金額設定がないにもかかわらずなぜお布施・寄付がなされるのだろうか。そこに納得や意味が見出されていればよいが、時にお寺に寄せられる「お布施」は、すべてではないにしても、「問い」や「納得」を経て行われたものではなく、むしろそういった「問い」や「納得」が放棄された慣習的な行為であるかもしれないという可能性があるのでないかという疑問を感じており、それへの違和感を持っていたのかもしれない。
もちろん、布施や寄付ということ自体を否定しようというものではありません。それぞれの信仰や価値観に基づいた寄付、納得や意味をもった寄付であれば、もちろんそれはすばらしいことだと思います。しかし、一方で場合によっては、「そういうものだから」とか、「ずっとやってきたことだから」と、問いや納得もなく、あるいは説明されることすらもなく、形式的のみに「布施」「寄付」という行動が採用されているのだとしたら、それは(ひどい言い方をすると)構造的搾取とも言いえてしまうような集金行為である可能性がある。その可能性がないとはいえない。そんな怖さをそこに感じていたのかも知れません。
もっとシンプルにいってしまうと、わが身に引き寄せて考えたときに、「自分ならばそのお布施(寄付)をするだろうか?」とか、「自分がそのお布施(寄付)を受ける意味・理由をちゃんと見いだせているのか?」と考えるときに、幼かった自分にとって(小学生・中学生のころですが)ちゃんとYESといえるだけのものを持ち合わせていなかった、そういう言い方もできるかもしれません。
誤解のないように言っておくと、いま自分のお寺では、お寺と支えてくださる門徒さん信徒さん(いわゆる檀家さん)たちとの関係は良好だと感じています。お寺に好意的に関わってくださる方、積極的に協力や支援をしてくださる方がたくさんいます。「搾取」しているわけではないと思っていますし、納得や説明をして、向けてくださったご期待に添えるようにありたいと思っています。しかし、やはりどこか歴史的な文脈や慣習の上に成り立って、いまのお寺が存続しているという現実はあることは否めません。だからこそ、それに胡坐をかき続けるのではなく、問い直しや、説明をしていく責任があるのだ、という思いもまた抱えています。(それが現在において十分に果たせているかというと、そうではなく、まだまだ見直し、考えるべきことがあるとも思っています。)
「お布施」(寄付)をお預かりする側として、お寺・僧侶として、どういう心持ちで、それらと向き合うべきなのか、そういう問いや言葉を自分のなかで繰り返し、醸成し続けることが意味あることなのではないかと思っています。
●「布施」・「寄付」の意味や納得を考え直す機会として
今回のカリー寺基金のクラウドファンディングは、上に書いた二つの面から、僧侶としての自分自身の「寄付集め」ということについての問い直しという意味を持つチャレンジでもありました。
(1) 古来、あったはずである僧侶の「ファンドレイザー」としての一面(言うなれば、地域の「寄付集め係」の在り方)を、現代的に問い直してみること。
(2) お寺へ寄付するという行為、お寺としての寄付の呼びかけを、「問い」や「意味」が問われる文脈に置きなおして行うことで、見えてくるものを考えたいということ。
(1)については、今回のクラウドファンディングは、「基金の構築」という、いわば「ファンドレイズのための、ファンドレイズ」「助成のためのファンドレイズ」であり、よりその問いを顕在化させるように思っています。
また、先にも述べたような「歴史的」「文化的」に寄付される存在であった、「お寺」(を名乗る「カリー寺」)や僧侶(住職)へのファンドレイズは、そういった歴史的・文化的蓄積の肯定的(ポジティブ)な活用たりえるのか、という問いでもあるように思っています。
(2)については、クラウドファンディングを行うという行為自体がその問い直しの作業でもあると思っています。そういう意味では、成功できるならば、もちろんうれしいことですが、仮にそうでなかったとしても、そこから読み取るべき、考えるべき意味は、十分にあるように思っていました。
そういった意味で、(当然のことといわれるかもしれませんが)今回のクラウドファンディングは、単に金額を積み上げるだけの時間ではありませんでした。どういう関係性をカリー寺の他、西正寺で行ってきた活動のなかで紡いでいたのか、自分や自分たちの思いやビジョンはちゃんと伝える作業をして、共感・共有は行われていたのだろうか、そういった足元をいちいち見つめなおす機会でもありました。暫定的な「答え」として見えてきたものも、いくつかありました。
おかげさまで、現在今回のチャレンジは、3月17日の23時現在で、95%を超えるところまで到達することができました。みなさんのご協力あってのことですが、金額のみならず、カリー寺住職の内面的な問い、チャレンジとしても大変得るものが多い期間を過ごさせていただいているという思いが強くあります。(ありがとうございます)
● またやると思います。
クラウドファンディングや、あるいは違った形かもしれませんが、「寄付のお願い」とう行為はまた行うだろうとおもいます。そもそも「お寺」「僧侶」の在り方が「お布施」「寄付」と不可分には成り立ちません。だとするならば、それに慣習的に依存するのではなく、社会の中で「寄付」「贈与」ということについて、問いかけやそのより良い形を問うてみるということがテーマとして立ち上がっているように思われるからでもあります。
そのようなわけで、お布施や寄付について思うところの一端をこの機会に言葉にさせてもらうことにしました。また、いろいろなご意見や感想があれば、いただければありがたいです。
また、寄付やクラファンのお願いをさせていただきましたら、また温かく見守っていただけたら幸いです。
追伸:
今回は書けませんでしたが、その「寄付」はもちろんもらう側としての視点のみではなく、これまでに私自身が行ってきた「寄付する側」になって見えてくるものもたくさんありました。(NPOやいくつかの団体に最近では寄付や継続的な関係を作るような活動をしています。そのあたりは、また別の機会があれば。)
寄付・お布施に支えられながら動いている身としては、寄付は受け取りつつまた、様々なところにお返しもしていけたらと思っています。