高知県の郷土史家、広谷喜十郎は、ヒマラヤにそびえるナンダ・コート(6867m)に特段の想いを抱いている。広谷は今年85歳を数える。土佐藩士の中には、明治維新ののちに北海道に入植し開拓に尽くした藩士が少なくない。広谷はそうした藩士に強く興味をそそられ研究している。
2007年春、高知県立坂本龍馬記念館で開かれた「反骨の農民画家、坂本直行展」。広谷の足は展示されていた「門田ピッケル」の前でくぎ付けにされた。
広谷は「その日」を鮮明に記憶している。
ナンダ・コートの初登頂に成功した立教大学山岳部は門田ピッケルを使用していた。門田ピッケルの創始者は、四国土佐河内(高知県佐川町)で200年続いた甲冑師である。こうした事実は承知していた。しかし、門田のピッケルを目の当たりにするのは初めてだったのだ。
広谷たちの調査研究によると、農民画家の坂本直行と門田ピッケルの系譜は次のようになる。
直行(1906~1982年)は幕末の志士、坂本龍馬の子孫で、北海道大学山岳部の創設に大きく寄与した。門田ピッケル創始者の門田直馬は直行の父、弥太郎と北海道入植以来の旧知の間柄だった。
門田家は明治維新の廃刀令によって廃業に追い込まれ、細々と刃物を作り生計を立てていた。直馬は25歳(1902年、明治35年)の時に北海道の空知に入植し、開拓に必要な鍬、鎌などを作っていた。農機具製造が軌道に乗ると札幌に拠点を移した。
その門田直馬の次男、茂の元に「同じモノを作ってほしい」とドイツ製のアイゼンを持ち込んだのは、坂本直行の学友で北大山岳部の後輩だった。次いでスイス製のピッケルを持ち込む。茂はそれを見本に第一号のピッケルを製作する。1930(昭和5)年のことだった。
坂本は門田の作ったピッケルを生涯愛用し、著作「山と絵と百姓と」の中で「借り物のピッケル、たとえそれがシェンクにしたところで門田に及ぶわけがない」と綴っている。
門田たちのピッケルは1936年、立教大学山岳部のナンダ・コート初登頂によって世界的に知られことになり、一大ブランドへ一挙に上り詰めていく。
ナンダ・コート初登頂は当時、世界山岳史上で無名に近い日本を一躍有名にした。そればかりでなく、日本製ピッケルで登った事実は、日本の製造技術の優位性を世界に示す格好の機会になったのだ。
三代に渡った門田ピッケルは1986年、後継者である門田正の突然の病気によって60年近く続いたピッケル製作にピリオド打って廃業した。
広谷は、初めて門田ピッケルを目にした感激をこう結んだ。
「門田家は土佐藩で決して知られた甲冑師ではなかった。ところが北海道に移住し、農機具で開拓に貢献し、ピッケル作りに出会って世界に認められた。ナンダ・コートは土佐人門田を有名にしたのです」
(※写真は立教大学山岳部・堀田弥一隊長の装備。門田ピッケルがある=渡辺正和撮影、富山県立山博物館の資料より)