登山家、栗城史多氏が今回のプロジェクトに応援メッセージを寄せていただきました。 エベレスト挑戦を続ける栗城氏の応援は純粋で飾りなく、山を通した絆を感じます。
1936(昭和11)年、ヒマラヤの未踏峰「ナンダ・コート(6867㍍)」を征服した立教大学山岳部の若き学生達の夢を、大蔵喜福(64)、栗城史多(34)の2人の登山家がナンダ・コート初登頂80周年を記念して語り合った。 大蔵は、マッキンリーに24回登頂し、「風の研究」で第三回秩父宮記念山岳賞に輝くベテラン登山家。栗城は、六大陸の最高峰に登頂し、無酸素、単独でエベレストに挑み続ける若きアルピニスト。 栗城は、十分情報の無い時代に独学でヒマラヤの山を研究し、未踏峰に挑んだ学生達の夢の力に驚き、“否定の壁”を超えた初登頂の偉業を称えた。 大蔵は今年10月、立大山岳部OB達と遠征隊を組んで再びナンダ・コートの頂を目指す。大蔵は、真摯に語る栗城の話に耳を傾け、80年前の学生達のロマンをトレースしていた。 ナンダ・コート初登頂80周年記念事業は今秋、再登頂の山場を迎える。
ナンダ・コート初登頂80周年記念事業実行委員会(代表幹事・毎日映画社)は5月28日、東京・品川の「大崎ブライトコアホール」にて作家、夢枕獏氏を招き、記念講演会を開催します。 ナンダ・コート(6867m)はヒマラヤ山脈に位置し、1936(昭和11)年、日本初のヒマラヤ遠征を敢行した立教大学山岳部(堀田弥一隊長)によって登頂されるまで、未踏峰の山でした。世界で初めて登頂に成功した立教大山岳部の偉業は、日本山岳史における「金字塔」とされています。 しかし、日本は同年の二・二六事件に端を発し日中戦争、太平洋戦争へと突入し、初登頂の偉業は戦火の中で忘却されていきました。 初登頂80年目に当たる昨年、隊員として同行した大阪毎日新聞社の竹節作太記者(故人 )の生家(志賀高原)で登頂時に使ったテントなどが発見されました。また、幻の山岳ドキュメンタリー映画と言われ、長年所在不明になっていた「ヒマラヤの聖峰 ナンダ・コット征服」(28分)のプリントフィルムも公益財団法人日本山岳会の倉庫で発見されました。 夢枕氏はベストセラー小説「神々の山嶺」などの著作で知られる通り、山通の作家です。80年前にヒマラヤを夢見た学生達の偉業の「今日的意味、価値」などを語ります。 また、対談者は今秋、再びナンダ・コートに遠征する登山隊隊長を務める登山家、大蔵喜福(毎日映画社顧問)が務めます。「ヒマラヤの聖峰 ナンダ・コット征服」も上映します。 ▲日時:5月28日(日)午後1時開場 午後1時半開演 ▲場所:大崎ブライトコアホール(東京都品川区北品川5-5-15) 入場は無料で定員300人を予定。5月19日まで先着順で受け付けます。参加を希望する方は氏名、電話(携帯)、メールアドレスを付記(通知)して申し込むことが出来ます。電話:03-3518-4112 (毎日映画社内 記念事業事務局)FAX:03-5280-0030(参加申込書0425)をダウンロードして必要事項をを記入の上、FAXしてください。メール:nanda@mainichieiga.co.jp
「ナンダ・コート」初登頂80 周年記念プロジェクト 帰国が間に合えば、8000m 級の高峰に挑む登山家 栗城史多、ヒマラヤなどの山岳カメラマン門谷優の2 氏がゲスト出演を予定しています。司会は今回、ナンダ・コート再登頂隊長の登山家、大蔵喜福が務めます。▶「 ヒマラヤの聖峰 ナンダ・コット征服」(28 分 ) を上映▶ 発見された立教大学山岳部特注テントを展示 日時:5月28日( 日) 午後1時開場 1時30 分開演( 約2時間) 場所:大崎ブライトコアホール(マップ)( 東京都品川区北品川5-5-15 TEL03-5447-7130)
1936年夏に発行された大阪毎日新聞社の写真特集紙面「日曜グラフ」。「立教ヒマラヤ隊 零下五〇度を目標として考案された登山用具」の見出しで、日本初のヒマラヤ遠征隊「立教大学山岳部」の装備を紹介している。 写真に添えられた短い記事は冒頭、「二万尺以上の高峰に立った時、日本人の身体の調子はどんなものであろうか?……」の書き出しで始まる。 二段落目には「日本人でかかる高峰に立ったものがいまだかつて一人もいないのだから、すべて外国登山家の記録を参考として装具一式を揃えなければならない」と記している。 立大山岳部の依頼を受け、この難題に挑んだ縫製職人がいた。 細野博吉。 生まれは東京豊島区西巣鴨。尋常小学校卒業と同時に縫製の道、防水布店「細野商店」に入る。二十歳の年に主人が亡くなり、細野家の養子になり二代目を継承した。細野商店は人力車の幌、車夫の雨合羽などを製造販売していた。 立大山岳部は、博吉の防水性の高い縫製技術に目を付け、テント製作を依頼した。 「日曜グラフ」には、今回発見された三角型ウィンパーテントと同型テントの写真を掲載している。 三角型テントは高さ1.5メートル、最大横幅2.0メートル、奥行き2.1メートルの3人用で、山頂アタックに使った。 戦時中、博吉は徴兵され、神田須田町に在った店舗は空襲で焼けた。復員した博吉の元にテント製作の注文など舞い込むはずもなかった。 転機は1952~56年、日本山岳会の三次にわたるマナスル遠征。登山隊は博吉のテントを採用した。同時期の南極観測隊に、さらに1970年の日本山岳会エベレスト登山隊に、ナンダ・コートで養った技術を生かし、次々に改良を加えたテントを提供した。 南極観測の先遣隊に提供したテントには、エピソードがある。 立大山岳部など登山隊に提供したテントは、オレンジ色の布を用いた。オレンジは白銀の雪山で目立った。越冬した先遣隊が南極から帰国し、博吉に注文を付けた。 「白夜の南極では、オレンジ色のテントでは明る過ぎて寝るのに困った」 研究熱心だった博吉は以後、南極観測隊のテントを青色に変えた。 博吉は1977(昭和52)年、国の「現代の名工」に選ばれる。 「ヒマラヤの雪は乾いているのでワイシャツ地とほぼ同じ布で良かった。国内ではベタ雪なので使えない。南極のテントは四本柱のピラミッド型にした。柱をたたんで犬ゾリに乗せるのに便利だからです。美しいモノを作る必要はありません」 世界の山を征服し、名工に選ばれた博吉の言葉である。博吉は1995年、79年の生涯を閉じた。 細野商店は現在、三代目の昌昭社長(70)が継いで台東区東上野に工房を構え、帆布バッグなどを製作。製品は山愛好家をはじめ多くの根強いファンの間で知られ、人気を呼んでいる。