1936年夏に発行された大阪毎日新聞社の写真特集紙面「日曜グラフ」。「立教ヒマラヤ隊 零下五〇度を目標として考案された登山用具」の見出しで、日本初のヒマラヤ遠征隊「立教大学山岳部」の装備を紹介している。
写真に添えられた短い記事は冒頭、「二万尺以上の高峰に立った時、日本人の身体の調子はどんなものであろうか?……」の書き出しで始まる。
二段落目には「日本人でかかる高峰に立ったものがいまだかつて一人もいないのだから、すべて外国登山家の記録を参考として装具一式を揃えなければならない」と記している。
立大山岳部の依頼を受け、この難題に挑んだ縫製職人がいた。
細野博吉。
生まれは東京豊島区西巣鴨。尋常小学校卒業と同時に縫製の道、防水布店「細野商店」に入る。二十歳の年に主人が亡くなり、細野家の養子になり二代目を継承した。細野商店は人力車の幌、車夫の雨合羽などを製造販売していた。
立大山岳部は、博吉の防水性の高い縫製技術に目を付け、テント製作を依頼した。
「日曜グラフ」には、今回発見された三角型ウィンパーテントと同型テントの写真を掲載している。
三角型テントは高さ1.5メートル、最大横幅2.0メートル、奥行き2.1メートルの3人用で、山頂アタックに使った。
戦時中、博吉は徴兵され、神田須田町に在った店舗は空襲で焼けた。復員した博吉の元にテント製作の注文など舞い込むはずもなかった。
転機は1952~56年、日本山岳会の三次にわたるマナスル遠征。登山隊は博吉のテントを採用した。同時期の南極観測隊に、さらに1970年の日本山岳会エベレスト登山隊に、ナンダ・コートで養った技術を生かし、次々に改良を加えたテントを提供した。
南極観測の先遣隊に提供したテントには、エピソードがある。
立大山岳部など登山隊に提供したテントは、オレンジ色の布を用いた。オレンジは白銀の雪山で目立った。越冬した先遣隊が南極から帰国し、博吉に注文を付けた。
「白夜の南極では、オレンジ色のテントでは明る過ぎて寝るのに困った」
研究熱心だった博吉は以後、南極観測隊のテントを青色に変えた。
博吉は1977(昭和52)年、国の「現代の名工」に選ばれる。
「ヒマラヤの雪は乾いているのでワイシャツ地とほぼ同じ布で良かった。国内ではベタ雪なので使えない。南極のテントは四本柱のピラミッド型にした。柱をたたんで犬ゾリに乗せるのに便利だからです。美しいモノを作る必要はありません」
世界の山を征服し、名工に選ばれた博吉の言葉である。博吉は1995年、79年の生涯を閉じた。
細野商店は現在、三代目の昌昭社長(70)が継いで台東区東上野に工房を構え、帆布バッグなどを製作。製品は山愛好家をはじめ多くの根強いファンの間で知られ、人気を呼んでいる。