クラウドファンディングのリターン「精麻のミサンガ~えにし~」の製作のため、奈良県にアトリエを置く作家の春さんを訪ねました。大麻草からできる「精麻」からつくるミサンガが、ずっとずっと繋がっていくロマンを感じた一日でした。間違いなく大変な作業だけど、支援してくれる、応援してくれる人を想いながら編みあげたいと思います。今後とも引き続き、「祈りの旅」の応援よろしくお願いします!
カンボジアの子どもたちの識字率がとても低いと聞いて、少しでも「書く」ことの楽しさを知ってほしいと思い文具を送るプロジェクトに参加したことがあった。ただ漠然と「自分にも何か出来ることがあるかも」と思い立ったあの頃が懐かしい。そんな僕がカンボジアに行き、教室で子どもたちと「書」の授業をしている。言葉の通じない、文化や生活環境も違うたくさんの子どもたちに囲まれて。日本にいても、どこにいても、「上手く書く」ことだけじゃなく、ただ純粋に「書くこと」を楽しんでほしいと思う。「書くこと」はもちろんだけど、「文字を読める」喜びも知ってほしい。文字が読めることで、僕はたくさんのことを学んだし、文字が書けることで、たぶんたくさんの人に喜びを与えてこれた。すべてではないけど、諦めずに歩き続けてきた先で、20歳頃の自分が見ていた未来がある程度創造できている気がする。「誰かの力になりたい」思っていたよりちっぼけな力にしかなれなかったけど、間違いなく今僕はほんの少しこの世界の役に立てている気がする。日本の皆さんいつも応援してくれている皆さんいつもありがとうございます僕はさらに多くの人の力になっていくことを誓います。この日はバレンタインHappy Valentine!!日本に帰ったら筆を贈る約束をしました。
日本の建国記念日、戦場カメラマンとして活動した一ノ瀬泰造さんの墓参に行ってきた。一ノ瀬さんはベトナム戦争の最中、戦いが激化するカンボジへ入国し、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡を単独で目指しました。そして、1973年11月 「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残し消息を断った。その後、アンコールワット北東部のプラダック村にて遺体が発見され、現在そこにお墓があります。ジャーナリストという仕事に命をかけ、世界中を駆け回る仲間が僕にもたくさんいます。どうかみなさんが無事で、そして「戦場カメラマン」と呼ばれる仕事がいつか消え去る世の中が来ることを切に願います。今日も世界のどこかで、こうして日本人が活躍し、称えられていることが日本人の誇りです。ありがとうございます。
拷問・処刑が行われていた政治犯収容所のS21(トゥール・スレン)、処刑場だったキリングフィールドへ。ここでは当時、看守の望む証言を得るために激しい尋問や拷問が行われ、それに耐えられなくなった囚人達が架空の自白を行うことによって次々と処刑されていきました。約14000人~20000人程の人たちが収容されて、生きて出てこられたのは、たったの8人だけだったそうです。1976年から1979年。まだ40年ほど前のつい最近の出来事。過去は戻らないしその過ちを正すことは出来ないここで亡くなった方々が帰ってくることもないカンボジア人がカンボジア人を殺害し罪のない命が、意味もなく消え去りました今の僕たちにできることは二度とこの過ちを繰り返さないこと人が人を傷つけることの惨忍さ恐怖で人を支配することの愚かさカンボジアへ来て初日の朝から世界の記憶をしっかりと見せていただきました言葉にならないこの感情これを言葉にするには自分の中の言葉が少なすぎるそしてまだまだ昇華しきれていないごめんなさいでも頭の中が整理できた時、また改めてこのことを語りたいと思います。そして一部を除き、建物内の写真、映像は控えめにさせていただきます。どうかぜひ足を運んで、体感していただきたいです。祈りの旅は続く·····
カンボジアから帰国しました。実り多き旅だった。とにかくもっと世界を知ろうと思った。この世界にはたくさんの「祈り」が存在していて、まだまだ多くの「祈り」を必要としている人たちがいる。今回それを肌で感じた。学生の頃、海外支援をする友達を見て、「なぜそんなことをするのか?」と思ったことがあった。その国にはその国の歴史や、立場、役割があるし、それなのに教育支援や医療支援、様々な支援をしていることが不思議だった。でも今回カンボジアへ行ってみて、実際に教育支援や医療支援の現場を見て回った。話を聞いて、歴史を知って、考えが変わった。今までの「なぜ?」は、間違いなく僕自身の知識不足だった。その国の歴史や背景を知ろうとせず、決めつけていたのかもしれない。世界はまだまだ力を必要としている。だから僕ももっと力をつけたい。