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サッカー歴20年目の年に結果を出す、経歴なしのジャイアントキリング

これは私、サッカー歴20年、選抜歴一切なしのプレイヤーが 皆様の力をお借りして、Jリーガー、プロサッカー選手にな為のプロジェクトです。

現在の支援総額

353,500

44%

目標金額は800,000円

支援者数

47

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/03/13に募集を開始し、 47人の支援により 353,500円の資金を集め、 2020/05/15に募集を終了しました

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サッカー歴20年目の年に結果を出す、経歴なしのジャイアントキリング

現在の支援総額

353,500

44%達成

終了

目標金額800,000

支援者数47

このプロジェクトは、2020/03/13に募集を開始し、 47人の支援により 353,500円の資金を集め、 2020/05/15に募集を終了しました

これは私、サッカー歴20年、選抜歴一切なしのプレイヤーが 皆様の力をお借りして、Jリーガー、プロサッカー選手にな為のプロジェクトです。

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きれいな彩り
2020/05/01 19:41
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高校サッカーとは、全国高校サッカー選手権大会だと思っていた中学3年。当時中学生3年の時の自分にはあの国立で輝きを放つ柴崎岳選手に憧れて都内の私立高校へスポーツ推薦で進学を決めます。そして、入学と時を同じく両親が離婚します。私立に行った自分を育てる為母親は朝から晩までカンナみたいに命を削って家に灯りを灯してくれてました。入学して間もなく、なんとAチームとの紅白戦。1年からスタメンを取る気でいた自分には、最高なシュツエーションでした。結果は0-0でした。ですが、自分の良さをボランチとして発揮でき、このレベルならやっていけると思っていました。紅白戦後の練習中、横でやっていたAチームの方に呼ばれます。いきなりチャンスです。「アピールできる」そんな気持ちでした。監督からAチームの前で2対1のゴール前の攻略のお手本をやれと言われ、相手の逆を取ったりするのが好きな自分にはもってこいの練習。いつも通り守備の守り方を見て、自分で行くのかもう一枚を使うのか決め、いつも通りこなしました。その日は、そこだけの参加で練習が終わりました。翌日グラウンドへの足取りは軽かったです。でしたが、この日から陽の当たらない生活の始まりでした。「思い返すだけで地獄です」Aチームの選手からのイジメ。挨拶の様に殴られ、蹴られの毎日。思春期の彼らはよっぽど自分の前で新一年がお手本をやるのが気に食わなかったのでしょう。流石に1週間も続けば、学校に行くのさえ嫌になります。毎朝母親に嫌々起こされ家を出されます。部活に行きたくない。そこで、怪我をした振りをして毎日病院に行くと監督に言い部活には出ず帰っていました。イジメられてる。なんて親には言えません。ただただ辞めたいの一点張り。相談に乗ってくれる同級生もいました。夏まで我慢しよう。夏の選手権予選が終われば3年生はいなくなる。確かにそうだ。そうこう我慢してると、早々に負けてくれました。15歳の僕は本当に救われた。明日から3年生が来なくなる日を待っていた。ですが、まだ陽は当たりません。まだ敵はいました。Aチームにいた2年生です。ここから後半戦です。3年生が僕にやるのをみていた2年生はそれを引き継いでいました。そしてまた、怪我をした振りをして部活に出ず帰宅していました。年末、合宿がありました。その前日、ある2人の生徒が顧問の先生に呼び出されます。彼らはある問題を起こしました。そして、下された一年全員坊主命令。自分は、絶対しない。なにも悪いことをして無いのに自分が罰せられる意味が納得いかず30人ほどいた同級生は皆坊主にしているなか僕は絶対にしませんでした。また、これが気に食わない先輩と毎朝喧嘩をします。練習が終わる度に、自分の所に来ておまえもやれと殴られ、蹴られ。もう耐えきれませんでした。朝学校に行く振りをして、最寄りのマックで時間を潰し。親が仕事に行ったのを見計らい帰宅しそんな繰り返しです。最後は、従姉妹のお父さんお母さんと4人で話し合い泣きながらもう耐えられない辞めたいと伝えました。この時泣いていた母を今でも覚えています。そして、3月転校します。親にはもうバイトして学費を稼げると言われて大好きだったサッカーからも遠ざかります。高校2年の年は、転向した高校にサッカーもなく、バイトと学校の繰り返しです。セブンイレブンで週6回程勤務していました。でもやっぱサッカーは好きなんですよ。中学時代お世話になっていたチームで練習だけやらせてもらいます。中学生の中に高校2年の自分が混ざってやります。ガキだった自分には高1出会った出来事などを気づかず引きずっていたのかもしれません。そんなある日の練習中、守備をしていた自分の足が引っかかり選手が怪我をしてしまいます。その時も、言えませんでしたが、決してわざとではありません。自分の過去などがありそう判断される、それはもう僕にはどうにもできなかった。わざとじゃ無いというのも伝えられませんでした。その出来事を母は怪我をした子の親から電話で知らされます。夏のあの日、ベランダで泣きながら電話をする母。また、泣かせてしまった。けど、16歳の僕にはどうにもできません。でも、この時の事を、一度も忘れてはいません。練習、試合、私生活でも忘れてません。いまもあの時のいろいろなシーンを思い出します。高3になり、母、そしてチームの監督がとあるユースの街クラブを紹介してくれます。FCトリプレッタです。そのクラブは、当時僕が高1の頃いた高校にリーグ戦で快勝したクラブでした。めちゃくちゃ上手い、ただただ上手いそんな印象でした。ここで試合に出れるわけが無いと思いながらも入団をします。このチームは、一言で言うとfamilyです。選手の私生活での出来事までを気にかけてくれるお父さんの様な監督。その監督の作った屋根の下で笑いの絶えずサッカーを楽しむ選手達。本当に僕は彼らには僕は救われました。ここでの時間が自分には、とても色鮮やかで深く心に残る思い出となりました。学校では、新しいクラス編成で春を迎えました。担任はなんと2年の時、めっちゃ嫌いだった女の先生でした。その先生はなんせ、厳しいのです。とにかく、厳しい。2年の時は、英語の授業でしか会わなかったけど、これからほぼ毎日顔を合わせるのはちょっと、嫌だなと思っていました。放課後、先生に呼び出されてお説教もさせられたことも多々ありました。クラスメイトは、みんな凄く大人しくて真面目で優しい人達ばかりです。そんな、みんなと迎えた受験期は自分の心に今も深く描かれたままです。誰かの進む道を応援したり誰かの進む道が決まり自分の事の様に喜んだりと、今までにない経験をさせてもらいました。自分にとって天敵であった担任の先生も、自分が受験の時小論文や面接練習をひたすらやってもらえて、そのお陰で志望校に推薦で入学する事もできました。凄く感謝しています。転校生で3年の時、担任になっただけなのにあんなにも自分に向き合って貰えたのは凄く嬉しかったです。卒業してからも、この時のクラスメイトと先生とでは、ディズニーランドに卒業遠足に行ったりみんなで会う予定を立てたりと、今でも繋がっていられる事が凄く嬉しいです。担任の先生は、今でも自分の現在(イマ)を気にして時々、LINEをくれます。最近も、自分の背中を押してくれたりと高校の時にあんなに見捨てないで導いてくれた話をきいて本当に恵まれてたと思いました。そして、凄く優しくて情に熱い人だったんだと改めて実感しました。サッカーを辞め荒れていた思春期に「ずっと手を差し伸ばし続けてくれた担任の先生には感謝しきれません」「何も言わず、その優しさで受け入れてくれたクラスメイトにも感謝しきれません」白黒だった高校生活にがいつのまにか、「きれいな彩り」で最高の高校生活でした!!荒井 友斗(プロジェクト支援者募集中)


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1年前。ドイツのプロ契約専門の代理人と出会いました。第一印象が誠実そうで、実績もありましたので、僕の渡独をお任せすることに決めました。同級生たちが社会人になっていく中で、母親に女手ひとつで育ててもらった僕にとって、これがプロへの「ラストチャンス」だと決めていました。毎日、地元の居酒屋で働き、そこで渡独費用を貯め一念発起したのでした。「これでだめなら就職活動へ」と。日本の仲間たちに、あたたかく送り出してもらい、昨年の4月ドイツへ渡りました。滞在7日目のこと。クラブチームの初のトライアウトです。技術、守備力の面でとても手応えがありました。終了後、監督から言われました。一言でした。「厳しいね」それを残して、監督はピッチを後にしました。なにがいけないんですか?どうしたらいいんですか?と食い気味に問いましたが、ダメでした。ホテルに帰ると、すぐ次のトライアウトを申し込んでほしい、と代理人へ連絡。ですが、そこからは話が進まず。1週間以上経ち、練習もない毎日。そしてついに連絡は途絶え、長いトンネルの中へ。本来では受け入れクラブがあるはずでしたが、一人で数人の少年とボールを蹴る毎日。毎晩こう思うのです。自分は、なんで詳しく調べなかったんだ。もっとちゃんとスケジュールが決まった上で渡航していたら...もっといろんな会社をみていたら...もっといろんな人に相談したら...もっと、もっともっと。。そうして僕は、帰国の決意に踏み切りました。あんなにも沢山の人に送り出してもらって、1年は帰らない予定がわずか2週間で戻ることに。「みんなにどんな顔して会えばいいんだ・・・」誰にも会いたくてありませんでした。ですが、それは帰る以上、無理なことだろうと思い、もう逃げられないと、一人ひとりへ頭を下げていこうと決めました。沢山の人を裏切るようなことになってしまったのだと改めて感じ、悔しくて仕方ありませんでした。このチャレンジで得たものは何もないと思って帰国しましたが、「こんなにも想ってくれる人がいて、泣いてくれる人がいる」そんな大切なことに気づかされました。表現できないほどの経験となりました。次が本当に、ラストチャンスです。あなたの力を分けてください。荒井 友斗(プロジェクト支援者募集中)


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「〜サッカーとの出会い〜」3歳になり家の前にある幼稚園へ通い始めました。1年が経ち年中になると、自分のクラスには、当時では珍しい男性の先生がいました。その先生のは先生と言うよりは、園内のものでアートを作り出す職人先生。"泥団子職人"その先生の下駄箱、そこはまるで染地美術館。中には色とりどりの団子達が扉が開くのを待っていたかの様に輝いていました。鮮明に覚えています。そんな職人がある日、僕をサッカーに誘います。これが僕の人生のスタートです。どうやら、その先生いわく、自分は過去最悪の選手だったみたいでお前がボールを持つと、いつも遊具の裏へ逃げて出て来なかった、みたいです!!そんな僕は、街の小さなクラブ「スクデット」に住み始めます。そのクラブには、誰よりもサッカーに熱く真面目な監督と、中田英寿似の団子職人の先生、そして10数名の子供達と住んでいました。そんな家に自分の同じ幼稚園にいたりょーたも住み始めました。「りょーたは、いつも自分の先を歩いていました」「年上の練習、試合に参加するのもりょーた」「誰にでも優しく"愛"のあるりょーた」「みんながその後ろを歩いていました」そんな事もあり小学生の頃の自分はサッカーが全然楽しかった覚えはありません。高学年になり、選考会に何回も一緒に行きました。選ばれるのはもちろんりょーたです。 今となっては、そんなりょーたは自分の全てを知っています。とある日、ある人がサッカーうまいよなという話をしているなか、皆は確かにあいつはうまい。最後に僕が、「いやーそおかな?」と答えるとりょーたは言いました。「ゆーとって人のこと上手いって言わないよね」と。笑鳥肌が立ちました。自分は自分より誰かを上手いと言うのは悔しさから口にできませんでした。そんな自分の癖を彼は見抜いていました。笑「サッカーって、つまらない」ですが、いつからかそこにとてつもない悔しい気持ちが生まれてました。彼に出会っていなかったら今の自分のこの誰にでも負けない負けず嫌いの精神はないでしょう。練習では、スタッフも混ざりボール回しが始まると中心にいるのはいつも自分です。ボールが取れず良く泣いていました。こんな事ばっか覚えています、(笑)試合では、相手は皆自分より大きい選手でコンタクトが非常に怖かったです。ドリブル?した記憶ありません。常にワンタッチ。6年生になるとやっと一つ上の中学生の練習に参加させてもらいました。そして、中学生の試合にも出させてもらう様になりました。ワンタッチのプレーしかできない自分を真面目で熱い早田コーチ(監督)は使い続けてくれました。この辺りからチームで勝つ喜び知り、特になにもしていないのに、チームの結果はボチボチでて小学生の僕には勝つ喜びを知りました。ですが、心にいる魔物は、そうは出て行って来れません。勝つ喜びは一瞬でいつも恐怖と悔しさに挟まれていました。「恐い」「つまらない」「悔しい」僕にとってサッカーはそんな印象でした。そんな自分達の家族に新しいお兄ちゃんが。当時大学の合間で来ていた、シミコーです。詰まらなそうにしている僕を見るといつも、「ゆーと、ボール蹴ろうぜ」と。今思うとこのお兄ちゃんがいなきゃ、どっかで辞めていたかもしれません。そんなお兄ちゃんはボールを蹴るだけでなく、小学生の僕を遊びにも連れて行ってくれました。映画を見たり、アウトレットに行ったり家でゲームをしたり、漫画を読んだり、プリクラを撮ったりと。中学生になり、練習にいく楽しみはシミコーがいるかどうかでした。練習より始まる前の30分、2人で一つのボールを追いかけた、「この時が1番サッカーか楽しかったです!!」6年生のとき同い年が、4人しかいない僕らはそのままスクデットの中学生の部へ皆であがります。自分はジュニアから同じチームのジュニアユースにあがったのに、そこはまるで他の家族の様でした。4人以外は他クラブから来た選手でみなとても個性的でした。場を盛り上げるやつ、ド天然で面白いやつ、常に真面目で自分と同じように負けず嫌いなやつ、そして、そこでもみんなの前を歩くりょーた。そんな、新しい兄弟達と3年間、時にクラブを辞めさせられそうになったりと、だらしなく僕らを正しい道へと歩ませてもらったりと早田コーチ(監督)には過去1手を焼かせてしまった世代だと思います。ですが、見捨てず10年間育ててもらいました。この家族は、僕にサッカーをする人間としての支柱となる「悔しさ」の種を巻いてもらいました。そして、負けないように枯れない様に笑って咲く花、となって行けるように。荒井 友斗(プロジェクト支援者募集中!!)https://camp-fire.jp/projects/view/244021


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◻︎ 調布の至高のイタリアン今回ご紹介させて頂きますチーム(お店)は京王線布田駅より徒歩1分、「オステリア アルコバレーノ」さんです。全17席の店内は隠れ家的でとっても落ち着く空間。カウンターには生ハムの塊がなんとも印象的です。それでは、まずディフェンスラインから紹介します!不動のセンターバックそれは!「北イタリア サンダニエーレ産生ハム」1,100円北イタリア フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州産(ハーフサイズ550円)間違いなくおかわりします!!そして、生ハムでこれを食べると市販の生ハムは食べられなくなります..イタリアに行った気分を味わえます笑さらに!味覚を駆け上がる不動のサイドバック「調布野菜のバーニャカウダ」1,400円地元調布野菜と全国の厳選野菜を引き立たせるアルコバレーノ特製アンチョビソースが口内のグラウンドに拡がっていきます。この色とりどりのバーニャカウダは、インスタ映え間違いなしですね。地元野菜を魔法のソースにディップ。ブッロコリー、オクラ、珍しいロマネスコが作り出す世界を見てみてください。続いてキャプテン、パスタ!ランチでと、A,B,Cの3セットからお好みのパスタを選べますので、ここで先日のランチのご紹介です^ ^Aセットは、基本的にトマトベースパスタBセットは、オリーブベースパスタCセットは、クリームベースパスタ前菜のサラダ、パスタ、1ドリンク、デザートまでついて1300円~!!主婦のお母様達の息抜きの場として有名で、食後のデザート「紅茶風味のパンナコッタ」これ、やばいです。なめらかすぎて舌がトラップミスしたかのように、消えてしまいます。そして、FWのご紹介、不動のストライカー「クアットロ ・フォルマッジ」2,000円最初は、え?チーズにはちみつ?嘘でしょ!と、思っていましたがチーズの酸味と蜂蜜のハーモニーがクセになりました。そこらのピッツァと一緒にしてはいけません。後半出場、さらなるピッツァは、シェフお勧めをチョイス!旬な野菜や自家製サルシッチャが乗ってたり、これまた美味い~!そして、ラスト!セコンド・ピアット奈良に来る前最後に食べた子鹿のグリルはとてもジューシー味わい深い逸品!!学生さんには誰かの記念日として行くのもまじでオススメ!コースで予約して、サプライズのバースデイプレートなどをお願いしておけば、思い出に残ること間違いなし!自分も友達や母の誕生日でサプライズのプレートを注文しましたが、飾りたいくらいお洒落なプレートなんですよ。超喜んでもらえたし、何よりこちらはデザート盛り合わせになります。色々なデザートを味わえますよ!さらにデザートをさらにご紹介。これが噂の紅茶風味のなんてこった、パンナコッタです。そして、女子1番人気(たぶん)クレマカタラーナ!大人の味パート2!!ガトーショコラ、お酒が使用されいますが飲めない自分もどハマりしてしまいました。。以上書いてるだけでお腹が空いてきました。私が地元で応援しておりますイタリアンレストラン「オステリア アルコバレーノ」のご紹介でした。ぜひ一度足を運んでくださいね!!荒井友斗(プロジェクト支援者募集中!!!)https://camp-fire.jp/projects/view/244021