こんにちは!
今年の4月からインターンとしてASEAN HOUSEに住んでいる早稲田大学5年生の堀田さくらといいます。
6月1日からこのクラウドファンディングが始まってから、すでにたくさんの方から多くのご支援を頂いており、皆様の温かいお気持ちがとても嬉しく感激しております。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
今回は、住人の私が日本で働く外国人の方々と日本人を繋ぐASEAN HOUSE をインターンとして支えたいと思ったわけをお話しさせてください。
好奇心のままに育った幼少期
まず、自分の生まれた環境から話させていただきます。
赤ちゃんの時も歩くことよりも喋り始めるのが早かったくらいにおしゃべりな子だったようです。
一方で、よく「落ち着きがない」と言われることも多く
習っていたダンス先生からは「さくらちゃんはすぐに周りの友達に話しかけてレッスンの邪魔をする」と怒られ、ダンスの発表会に出させてもらえなかったこともありました。
自分の知らないことを知ったり、人と話すことが楽しくなってしまって、すぐにいろんなことをやりたくなる質なのでした。
でも、そんな私に対して両親は「本当に好きな事をできるように」と様々な挑戦をさせてくれました。
忍者になりたいと夢みていた時期は奈良県にある忍者村で修業させてもらったし、
習いたいと思ったエレクトーンは12年間習わせてもらえた。
中学も高校も大学も自分の志望する進路を選ぶことを応援してくれました。
私は「本気でやりたい」と思ったことをやらせてもらえる環境にいて、いつも挑戦する機会を与
えてもらいながら育ったのでした。
バングラデシュで感じた「好奇心」と「無力感」
私の過去を振り返ったときに、私の今の価値観形成の中でこれ抜きでは語れないのがバングラデシュでの10日間です。
知らないことへの好奇心が強いということもあって、中学の頃からぼんやりと海外に興味がありました。社会の授業で先生が他の国について話したり、テレビの画面に映る海外の様子になんだか胸が躍る自分がいたのでした。
そんな憧れや好奇心に近い興味から、高校のプログラムを通して世界最貧国の1つともいわれるバングラデシュに高校2年生の時に初めて足を踏み入れました。
その時の私にとってバングラデシュで見た光景は奇妙で、非日常なものでした。
30分おきに列車が通る線路の両端に並ぶ掘っ立て小屋で暮らす家族。
人でごった返した青空マーケットで飛び交う自分が知らない言語。
道に生活ゴミが捨てられ、鼻をつんざくような凄まじい匂いがする場所で遊ぶ子どもたち。
1日に5回のお祈りの時間にモスクの方から流れるアザーンの音。
世界には自分の当たり前と違う価値観で生活をしている人がいる。
自分の非日常は、その国の人々の日常だったのでした。
その感覚が私の好奇心を掴んで離さず、
もっとこの広い世界を知りたいと思ったきっかけになりました。
ただ、同時に何よりもその時に感じたことは「無力感」でもありました。
物乞いをする6歳くらいの男の子を目の前にしたときに覚えたあの感情は忘れることが出来ません。
「なぜこんなことが起きているのか」
「なぜ世界はこんなに理不尽なのか」
「なぜ自分は何もできないのか」
いろんな感情が渦巻いて怒りの涙が出てきて、
でもその涙の正体が偽善のような気もして、自分の説得力のなさが悔しくて。
でも、やりたいことをやらせてもらって、何不自由なく育ってきた私はその時に初めて、自分がどれだけ「機会」に恵まれていたのかを知り、
それを当たり前のように享受していた自分が恥ずかしくなりました。
「自分は何でもできる」
そう勝手に信じ込んでいたことは、たまたま「機会」に恵まれた環境にいたからだったと感じた瞬間でした。
その時、湧いてきたのが
世界に存在するこの不平等な「機会」バランスをどうにかして変えたいという想いでした。
このたった10日間の経験が、エンジンのように私の心に炎を燃やし続けることになります。
フィリピンで挑戦したいという想い
京都の高校を卒業してからは早稲田大学、国際教養学部に進学。1年間の交換留学制度を利用して、デンマークのコペンハーゲン大学に留学しました。日本とデンマークの大学では、自由に授業を選べたため地域研究や国際協力についての授業を取っていました。
そうやって授業を取ったり、高校、大学と日本の学生団体として国際支援の活動をしながらも、なにか物足りなさを感じている自分がいました。
「現場にどっぷり浸かって、国際協力に携わりたい」
そう考えた私はデンマーク留学中に教育系NPO e-Educationの海外インターンの選考を受け、1年間フィリピンに行くことを決意しました。
フィリピンと言っても、皆さんがご存知のマニラやセブではなく、私が1年間滞在したのはカミギン島という北ミンダナオに浮かぶ人口8万人の小さな島。
島周は64kmでバイクで2時間もあれば一周できてしまう場所。信号も電車もありません。
現地でNPOインターンとして働く中で、私はカミギン島で唯一の日本人でした。
現地語もほとんど話せない、いきなり島に入ってきた日本人。
「1人で現地のために何かできるのだろうか?」
意気揚々と日本の友達に見送られ、普段はポジティブが売りな私もこの時は不安でしかなかった。
そんな心理状況で現地での教育支援のプロジェクトを前に進めなきゃと焦りを感じていました。
フィリピンを好きにさせてくれたのは、フィリピンの人々だった。
そうやって焦る私を、温かく本物の家族のように受け入れてくれたのは島の人々でした。
フィリピンのお祭りであるFIESTAで家に招待してくれたり、一緒にご飯を食べたり、ゲームをしたり、ヤシの実からココナッツを取ってきてくれてココナッツジュースを飲んだり、滝に飛び込んだり、飲み会をしたり。
そうやって一緒に時間を過ごしていくうちに、フィリピンと自分の距離が近くなっていくことを感じました。
いつの間にか「自分が1人でやらないと」という変に肩の力が入った感覚はなくなっていきました。
そんな中で、教育支援のプロジェクトも現地の人々と一緒に立ち上げることに成功し、より現地の人と一緒になって、本気で解決したいと思っている課題に対してアプローチすることが出来たのでした。
カミギン島の人たちが主体という形で、現地の機会の不平等をなくすための一歩踏み出すことが出来た経験は自分の中でも大きな自信となりました。
そうやってカミギン島で出会った仲間たちは、フィリピンの全人口で言えばほんの一部であることは間違いありません。
でも、ほんの一部のフィリピンの人たちとの出会いと一緒に過ごした時間が、
フィリピンという国全体に対してポジティブなイメージを与えてくれたのです。
異国であるはずのフィリピンでホっとする自分の居場所を作ってくれたのは、
そこに住んでいる人々の包まれるような温かさでした。
今度は、私が居場所を作りたい。
私はフィリピンでこのような経験をした後、今年の3月に日本に帰ってきました。
日本に目を向けたときに感じたことは「日本に働きに来ている外国人の方々が感じる不安と孤独も自分が感じていたものと似ているのかもしれない。」ということでした。
その頃、同じ NPO e-Educationで過去にインターンをしていて、ASEAN HOUSEを運営していた佐々くんから話を聞いて、彼が実現したいビジョンに深く共感をし、Joinする事を決めました。
日本に働きに来ている東南アジアの方々は、慣れない異国で言葉もあまりわからない中、祖国の家族のために必死に努力をして夢を持って日本にきているのです。
一回きりの人生の一部を過ごす国として日本を選んで来てくれた人たちに、日本という国を、日本人を好きになってかえっていってほしい。
異国でホっとできる居場所が、彼らが掴んだ機会が実を結ぶための背中を押すことができると信じ、ASEAN HOUSEを広げていきたい。
皆さんと一緒にそんな日本を作ることができたらと思っています。
残りのクラウドファンディングの期間、最後まで私たちの想いをより多くの人々に届け、一緒に温かい居場所を作っていけるよう全力で頑張ります。
どうか応援の程、よろしくお願い致します。