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『BIO』であふれる町ふじの!BIO惣菜・BIO直売所・BIO販売車を作りたい

【ネクストゴール110万円挑戦中】BIOBOXに続き、プロジェクト第二弾!!安心安全なお惣菜加工場、ビオ食品直売所、地元レストランの移動販売車、これら3つを藤野に作るプロジェクトです。

現在の支援総額

1,265,500

126%

目標金額は1,000,000円

支援者数

175

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/05/18に募集を開始し、 175人の支援により 1,265,500円の資金を集め、 2020/06/28に募集を終了しました

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現在の支援総額

1,265,500

126%達成

終了

目標金額1,000,000

支援者数175

このプロジェクトは、2020/05/18に募集を開始し、 175人の支援により 1,265,500円の資金を集め、 2020/06/28に募集を終了しました

【ネクストゴール110万円挑戦中】BIOBOXに続き、プロジェクト第二弾!!安心安全なお惣菜加工場、ビオ食品直売所、地元レストランの移動販売車、これら3つを藤野に作るプロジェクトです。

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油井敬史 の付いた活動報告

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羽村市を拠点とするスーパーマーケット福島屋の会長・福島さんが、Mr.オーガニック大浦さん(五十嵐との出会いについては、第8章にて後述)とのご縁で藤野を初めて訪れ、油井の圃場(ほじょう:農作物を育てる場所)に立ち寄ってくださった際のこと。福島会長は、油井が作ったかぶをその場で食べ、「うまい」と唸った。それから1ヶ月程度が経ち、油井が作る野菜は、福島屋に並ぶことが決まった。農業において常識とされる農薬や肥料を一切使わず、手作業で雑草を抜き続け、おいしい野菜が育つ環境とは何かを考え、仮説検証と反省を繰り返した。就農して7年目、正解がわからない中、できると信じてただ黙々とやり続けたことが身を結んだ快挙だ。就農当時、行政が油井の圃場を訪れた際、「農薬を使って雑草がないのが綺麗な圃場なんです。油井さんの圃場は雑草があっちこっちに生えて綺麗じゃ無いでしょ。そんなんじゃぁ、効率悪いですからね。農薬をきちっとまいて、オススメする肥料を使ってくださいね。それが一番、見栄えが綺麗な野菜をたくさん作れる秘訣なんですから。」と上から目線でやり方を強制した。そんなやり方を強制する行政に、油井は反発し、農協にも入らなかった。「ぜってぇ、そんなやり方、やんねぇ。うるせぇ」と。結果として、就農時に土地を借りることにも難航し、農協に入れば準備してもらえる売り先もないまま、150万円の給付金と、企業スポンサーからの新規就農支援金30万円だけが頼り。ただし、5年経つと給付金も無くなってしまうような状況。なんと、農業の研修を積んだ研修生の35%が4年以内に離農してしまうと言う厳しい世界。紆余曲折を経て、そんな世界に油井は飛び込むべくして飛び込んだのが2013年9月、油井敬史34の歳である。20歳の時、宮城から上京してきた油井は飲食店での仕事をスタート。実は、23歳、青山でバーテンダーの仕事をしている頃、渋谷で会社を経営していた土屋は油井が働くお店に顧客として来ていたのである。ただ、後になっての笑い話ではあるが、その当時、油井は土屋のことを、こんな人と関わるのは危ないと思い、一切関わりを持たなかった。一方の土屋は、油井のことを認識すらしていなかった。数年後、まさかバーで見ていた危ない人と藤野で再会するとは。その当時の油井は、働いては東南アジアをバックパッカーとして旅に出るということを繰り返すような生活をしていた。そんな生活に疲れた25歳の頃、藤野に半年間だけ住んでいたことがあり、その時、shuのシュウさんに飛龍さんを紹介してもらった。それがきっかけとなり、一度宮城に戻った後も、また藤野に戻ってこようと思い立ったのである。こんな風にして職業と住む場所を転々としながら、藤野に舞い戻った油井が就職先として選んだのがたまたま農業生産法人だったが、そこで食べた野菜の美味しさに感動したことによって、農業に少しずつ心を引かれていくのである。就農したばかりの頃、圃場は3反(約3,000m2)からスタートし、今では1町歩(10反)となった。はじめはトラクターも無い状態で鍬(くわ)を振って土を耕していた。炎天下の中、手作業で一つ一つ雑草を取り除いていくことは今でも変わらない。「こんなに大変な仕事はないっすね。お金のためだけだったら出来ないっす。ただ、やり続ける人になることが大切で、やり続けられるように楽しみながらやるってことっすかね。農家に向いてる人ってどんな人なのかなぁ。言うなれば、マッドサイエンティストみたいな人ですかね。だって、毎日毎日、仮説検証の繰り返しですから。」と油井は言った。「ただですよ、まじめに作業し続けるんじゃつまんないんで、これからは5Gを駆使して、海外に圃場を持つなんていうことを実現させたら面白そうっすよね。」藤野のマッドサイエンティストが、遠くない将来、ランボルギーニ社製のトラクターを乗りまわす時代がやってくるかもしれない。畑バカ一代|油井 敬史 /   畑が僕の人生そのものを育ててくれているんです。https://sharethelove.jp/report/4401/URBAN FARMERS CLUBhttps://urbanfarmers.club/


第1章 出会い
2020/05/18 21:21
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<プロジェクトメンバー(向かって左から)>油井敬史 1979年生まれ。農薬も肥料も一切使わずに野菜を育てるゆい農園の主人。渋谷でのバーテンダーや、海外放浪生活を経て、有機農業法人に就職。そこで食べた野菜の旨さに衝撃を受け、農家になることを決意。2014年に就農してから試行錯誤の後、現在のスタイルに辿り着く。五十嵐創 1984年生まれ。「農園 土とシェフ」の料理人兼農家。父が立ち上げた世田谷区の「広味坊」にて9歳から厨房に立つ。人が食べたものを土に還す循環社会を作ることを目指し、2018年に藤野に移住。風味風土風景を通した食文化の向上を図る。土屋拓人 1976年生まれ。ファーマーズマーケット藤野ビオ市の首謀者。大学在学中に起業した制作プロダクションにて、出版社やテレビ局などと多数のプロモーションを手がけていた。2009年、渋谷から藤野に拠点を移してもなお、湧き出るアイディアと人脈を駆使して複数のイベントを立上げるなど、イベントを通して活動の場を広げる。藤野での伝説的なイベント「ひかり祭り」の実行委員や、ライブハウス「渋谷O-EAST」の屋上や恵比寿ガーデンプレイスなどに畑を作り、都会でも実践できる農的暮らしを支援するNPOアーバンファーマーズクラブ立ち上げにも関わる。【はじめに】「クラウドファンディングに出資してくださる皆さまにも、僕たち4人で始めたプロジェクトの物語の主人公になって頂きたい。」そんな想いで、プロジェクトにまつわるエピソード(実話)を物語として描きました。私たち4人が暮らす藤野の食文化を皆さまと一緒に創っていくこと、そして少しずつこの輪が広がっていくことに願いを込めて。少し長くなりますが、最後までご覧になって頂けたら幸いです。ーーーーー  第一章 出会い  ーーーーー「はじめまして」藤野での食事会で土屋に名刺を渡すと偶然にも土屋は、小林が務める会社の顧客だった。そんなことがきっかけで急接近した土屋と小林。「まだ行ったことないなら創くんの店、今度一緒に行こうよ。めちゃくちゃ美味しいから。火曜日と水曜日限定でしか開いてないんだよ。」土屋に誘われ、五十嵐が運営する『土とシェフ』に初めて訪れたのは2019年の秋。肌寒い夜道を子どもたちと歩き、近所にある店に家族で着いたのが19時、くもった窓ガラスの隙間から店内を覗くと、満席だった。少し待ってから席に着くと、殺人的に忙しいことは誰が見てもわかる程、ひっきりなしに注文が入っている。厨房を覗くと、シェフが1人で必死に料理を作っている後ろ姿が見えた。大きな背中でキビキビとした動き。ジュワーという音とともに、高温で炒められる野菜。グラグラと沸騰した鍋の中に、鮮やかな放物線を描きながら入っていく刀削麺。その様子を見ているだけで小林の心はワクワクした。 程なくして、炒められた小松菜の前菜がのった皿が土屋と小林の前に置かれた。ごま油が小松菜に絡み、キラキラと輝き、生姜の香りがフワッと薫ってくる。さっそく口に運ぶと、スーパーに並ぶ小松菜とは比べ物にならないくらい肉厚の葉っぱから感じる食感と、凝縮された旨味が口いっぱいに広がり、多幸感から目を見開いて、「んーっ、うまっ。めちゃくちゃ美味いです。料理も美味しいし、この小松菜もすごいです。こんな小松菜初めて食べました!」そう伝えると、偶然にも、その小松菜の作り手が隣の席に座っていて、「この小松菜は油井くんのところの小松菜。紹介するね、油井くん」と土屋から言われ、状況を掴むのに一瞬時間が止まったことを思い出す。その時が油井と小林のはじめての出会い。農家というよりもミュージシャンと言われたら、そうだろうなぁと思ってしまうような見た目に驚きを隠せなかった。目の前にいるミュージシャンのような見た目の人が、今まで食べたことがないような味がする小松菜を作った人だということは俄かに信じられなかった。なんだか頭をガツーンと殴られたような感覚で、固定概念が吹き飛んだ。その後、次々と出てくる料理に舌鼓をうちながらも、あっという間に時間は過ぎていった。料理が一通り出てきて少しお店が落ち着いた頃、厨房から出てきた五十嵐を土屋から紹介された。「今日、なんだか忙しくって、せっかく来てくださったのに、料理をお出しするのに、時間かかっちゃってごめんなさい。このビール、藤野で作られたビールで、すごく美味しいんで、ぜひ呑んでください。お待たせしちゃったお詫びです。」都内に住んでいた頃はなかなか経験したことがなかったそんなおもてなしに、五十嵐の人としての温かみを感じると同時に、藤野の町の人と人との距離の近さを感じた。寅さんがいた世界で見たことがあるような懐かしい感じ。その後、年齢が近かったこともあり、話は尽きず、好きなバンドの話になり、五十嵐と小林の距離は一瞬で縮まった。その日、同じ店に偶然にも集まっていた4人が、数ヶ月後、プロジェクトを立上げることを、その時はまだ誰もが夢にも思っていなかった。