羽村市を拠点とするスーパーマーケット福島屋の会長・福島さんが、Mr.オーガニック大浦さん(五十嵐との出会いについては、第8章にて後述)とのご縁で藤野を初めて訪れ、油井の圃場(ほじょう:農作物を育てる場所)に立ち寄ってくださった際のこと。福島会長は、油井が作ったかぶをその場で食べ、「うまい」と唸った。それから1ヶ月程度が経ち、油井が作る野菜は、福島屋に並ぶことが決まった。農業において常識とされる農薬や肥料を一切使わず、手作業で雑草を抜き続け、おいしい野菜が育つ環境とは何かを考え、仮説検証と反省を繰り返した。就農して7年目、正解がわからない中、できると信じてただ黙々とやり続けたことが身を結んだ快挙だ。就農当時、行政が油井の圃場を訪れた際、「農薬を使って雑草がないのが綺麗な圃場なんです。油井さんの圃場は雑草があっちこっちに生えて綺麗じゃ無いでしょ。そんなんじゃぁ、効率悪いですからね。農薬をきちっとまいて、オススメする肥料を使ってくださいね。それが一番、見栄えが綺麗な野菜をたくさん作れる秘訣なんですから。」と上から目線でやり方を強制した。そんなやり方を強制する行政に、油井は反発し、農協にも入らなかった。「ぜってぇ、そんなやり方、やんねぇ。うるせぇ」と。結果として、就農時に土地を借りることにも難航し、農協に入れば準備してもらえる売り先もないまま、150万円の給付金と、企業スポンサーからの新規就農支援金30万円だけが頼り。ただし、5年経つと給付金も無くなってしまうような状況。なんと、農業の研修を積んだ研修生の35%が4年以内に離農してしまうと言う厳しい世界。紆余曲折を経て、そんな世界に油井は飛び込むべくして飛び込んだのが2013年9月、油井敬史34の歳である。20歳の時、宮城から上京してきた油井は飲食店での仕事をスタート。実は、23歳、青山でバーテンダーの仕事をしている頃、渋谷で会社を経営していた土屋は油井が働くお店に顧客として来ていたのである。ただ、後になっての笑い話ではあるが、その当時、油井は土屋のことを、こんな人と関わるのは危ないと思い、一切関わりを持たなかった。一方の土屋は、油井のことを認識すらしていなかった。数年後、まさかバーで見ていた危ない人と藤野で再会するとは。その当時の油井は、働いては東南アジアをバックパッカーとして旅に出るということを繰り返すような生活をしていた。そんな生活に疲れた25歳の頃、藤野に半年間だけ住んでいたことがあり、その時、shuのシュウさんに飛龍さんを紹介してもらった。それがきっかけとなり、一度宮城に戻った後も、また藤野に戻ってこようと思い立ったのである。こんな風にして職業と住む場所を転々としながら、藤野に舞い戻った油井が就職先として選んだのがたまたま農業生産法人だったが、そこで食べた野菜の美味しさに感動したことによって、農業に少しずつ心を引かれていくのである。就農したばかりの頃、圃場は3反(約3,000m2)からスタートし、今では1町歩(10反)となった。はじめはトラクターも無い状態で鍬(くわ)を振って土を耕していた。炎天下の中、手作業で一つ一つ雑草を取り除いていくことは今でも変わらない。「こんなに大変な仕事はないっすね。お金のためだけだったら出来ないっす。ただ、やり続ける人になることが大切で、やり続けられるように楽しみながらやるってことっすかね。農家に向いてる人ってどんな人なのかなぁ。言うなれば、マッドサイエンティストみたいな人ですかね。だって、毎日毎日、仮説検証の繰り返しですから。」と油井は言った。「ただですよ、まじめに作業し続けるんじゃつまんないんで、これからは5Gを駆使して、海外に圃場を持つなんていうことを実現させたら面白そうっすよね。」藤野のマッドサイエンティストが、遠くない将来、ランボルギーニ社製のトラクターを乗りまわす時代がやってくるかもしれない。畑バカ一代|油井 敬史 / 畑が僕の人生そのものを育ててくれているんです。https://sharethelove.jp/report/4401/URBAN FARMERS CLUBhttps://urbanfarmers.club/