2017/09/05 19:23

 

 

 二〇一七年八月六日は晴れの日だった。ひょんなことから小渕浜の神輿を担ぐようになって、今年で三年目になる。雨が降ったらどうするのだろう、と運営の学生だけで考えるのが恐ろしくて、お祭りを取り仕切る実業団の団長に相談をしたことがあった。「まあ、大丈夫だっちゃ」答えになっていない答えが、不思議と心強く聞こえた。実際に当日は晴れたのだから、今となればあとの祭りだ。「必ず当日は晴れる」という妄信と隣り合わせの確信を、私たちはいつも持っていた。そういえば。

 

 震災から六年と半年が経った。三年前に私たちがチーム出張寄席として仮設集会所で寄席(のようなもの)を主催し始めたとき、お客さんが日々暮らす仮設住宅は「コミュニティ」として機能していたと思う。あの時私たちが一軒一軒訪問しては顔を出し、寄席のチラシを配っていた仮設住宅に住まれていた方々はいま、およそ半数程度になっている。復興住宅の建設予定地に足を運んだのは昨年のことだった。震災から五年という歳月。被災者に向けた新しい住まい提供への動き出しが早いのか遅いのかは私には判断しかねるが、既に少なくなっていた仮設住宅の住民の方は、「もう、ここでいいんだけどねえ」と呟いた。

 

 その復興住宅に本格的に人が移りだした今年は、団長の判断で神輿担ぎの順路が大きく変更されることになった。高台に位置する復興住宅を含む、例年に比べて長くなった道のりを担ぎきるには多くの人が必要だった。昨年度ならば頭を抱えていたことだろう。しかし、もうひとつ変わったことがあった。学生参加者の飛躍的な増加。その変化が私たちの小渕浜への想いを強くし、さらに結託するキッカケとなっていた。

 

 私は神輿担ぎの前夜祭当日、バスツアー参加者の到着を小渕浜で迎えた。見慣れた顔、見慣れぬ顔がバスから吐き出され、辺りを見回し伸びをしていた。そこに期待に溢れた笑顔があった。このメンバーで小渕浜の祭りを盛り上げる。私は再び襟を正し、小渕浜での最初の企画である民宿あたご荘での落語会の準備へと急いだ。仙台からバスツアーに帯同した東北大学落研の方々と簡単に挨拶を済ませ、参加者のチェックインを見届けたあと、近隣住宅への最後の告知へと向かった。

 

 仮設集会所での寄席公演が私たちの活動の中心だったころ、開催を重ねるにつれて、来てくれるお客さんの数は減っていった。活動の比重が夏祭りへと傾いていったのも、それが一つのキッカケだったとも言えるだろう。夏祭りのステージ公演も落語自体も他演目に比べると不向きで、私の実力不足といえばそれまでなのだが、歯がゆい思いを感じていた。代表の大前健太とバスツアー開催から一か月前、ある話をした。それは「落語会の有無」についてだ。「チーム出張寄席」を彼と二人で立ち上げたとき、私は落研の活動の延長線上と捉えていたが、いつの間にか大学生活における課外活動の大きな二本柱へと形を変えていった。落研での施設から依頼を受けて伺う「慰問」ではなく、自ら企画し客を集め会を開く「自主公演」ができる喜びとやりがいをチーム出張寄席で感じていた。

 

 集客という点に絞って言えば、集会所での「桜畑寄席」のピークは2015年2月の第二回公演ということになるのだろう。それ以来、客足は段々と遠のいていった。それでもやり続けることに意味があるとは思っているし、それ以降の公演も確かに見続けてくれたお客さんもいた。私が今年度バスツアーで「落語会の中止」という合理的判断に首を縦に振らなかったのは、小渕の客席を落語で笑顔にできたその景色が忘れられなかったからだろう。その光景を、後輩たちに見せてやりたかった。私が「チーム出張寄席」として過ごす小渕の夏は、これが最後だったから。

 

~続~

 

 

文責 田辺康(酒乱苦雑派)

チーム出張寄席副代表・法政大学落語研究会