感謝 報告が遅くなりましたが、20%達成しました!! ご支援してくださった方々ありがとうございます。 ももこつのパッケージリニューアルについてですが、パッケージ案も出ており現在、作成中です。リニューアルパッケージが決定したら、いち早くレポートにて報告したいと思います。楽しみに待っていてください。 謝罪 当初は3日に1回、レポート投稿をしており、これから少しずつ投稿頻度上げる予定でした。しかし、学校の後期中間考査が迫っており、天手古舞の状況が続いています。レポート投稿は続けていきますが、間隔が長くなるかもしれません。ご了承お願いします。 これからも本ファンディングのご支援や応援をよろしくお願いします。
金森長近についての連続レポート 本文中にも記載しましたが、パッケージリニューアルにあたり、新しい要素として飛騨の歴史・文化を取り入れていく予定です。 重要キーワードは「金森長近」。 飛騨の人にとっては馴染みのある武将ですが、改めて、その魅力や人物像を掘り下げていきたいと思います。 三回に渡ってお届けしますので、順にお楽しみください。 第三弾:飛騨高山との関わり ~その後~ 初代君主となった金森長近は1588年に高山城の建築を開始。16年の歳月をかけて高山城を完成させ、城下町の街道の整備をしました。のちに高山城は、日本百名城の一つに選ばれるほどの立派なお城となります。 金森氏は飛騨君主として、1586年~1692年まで、6代にわたって飛騨国を支配。豊かな山林資源と鉱山資源を活用して飛騨国を発展させました。また、福井県や滋賀県から商人を招くことによって飛騨国の繁栄をも図りました。 街道の整備などの公共事業や文化の育成などに力をいれて飛騨の国を活力のある立派な国に変えたのです。 これは現在における飛騨地域の基礎となっています。
金森長近についての連続レポート 本文中にも記載しましたが、パッケージリニューアルにあたり、新しい要素として飛騨の歴史・文化を取り入れていく予定です。 重要キーワードは「金森長近」。 飛騨の人にとっては馴染みのある武将ですが、改めて、その魅力や人物像を掘り下げていきたいと思います。 三回に渡ってお届けしますので、順にお楽しみください。 第二弾:飛騨高山との関わり 既に信長は死去していたため、飛騨に攻め入る頃には金森長近は豊臣秀吉に仕えていました。 当時の飛騨は、吉城郡廣瀬郷(現国府町)の広瀬氏、吉城郡高原郷(現神岡町)の江馬氏、益田郡(現下呂市)の三木氏が勢力を競っていました。その後、三木が勢力争いを制し飛騨を支配していきましたが、秀吉に対抗していたため、飛騨を攻める命令が長近に下されたのです。 攻め入る長近の元には三木氏との勢力争いに敗れた将軍たちが集結していたため、飛騨侵略は有利となり、三木秀綱が守る松倉城を攻め落としました。 この功績により、長近は飛騨一国を秀吉からもらい受けることとなります。 其の三に続く~
金森長近についての連続レポート 本文中にも記載しましたが、パッケージリニューアルにあたり、新しい要素として飛騨の歴史・文化を取り入れていく予定です。 重要キーワードは「金森長近」。 飛騨の人にとっては馴染みのある武将ですが、改めて、その魅力や人物像を掘り下げていきたいと思います。 三回に渡ってお届けしますので、順にお楽しみください。 第一弾:金森長近(可近)誕生 金森可近は、1524年に現在の多治見市に生まれました。 17歳という若い年齢で信長の父にあたる織田信秀に仕官し、その後は跡を継いだ信長に仕えました。 信長公の下、美濃攻略に際し大きな功績を残したため、赤母衣衆に抜擢されます。 その後、長篠の戦いで酒井忠次と共に武田軍の背後に位置していた砦を攻め落としたことにより、間接的ではあるが、武田軍の退路を脅すほどの武将でした。 この時の功績によって、信長から「長」の字を賜り「長近」と名乗ることとなりました。 其の二へ続く~
2019年11月12日(火) の中日新聞 本クラウドファンディングについて中日新聞さんに記事にしてもらいました。 人生初の取材でした。 緊張している中、バンバン質問されてめちゃくちゃ心臓がバクバクでした。(笑) 頭が真っ白になっていたので、質問に対する応答はハッキリとは覚えていませんが、紙面を見るととても上手く、重要な事を整理して書かれていました。 中日新聞様には感謝しかありません! また、新聞記事をきっかけに支援して下さった方々もいるようで誠にありがとうございます。 まだ新聞を見られていない方は、12日の朝刊をチェックしてみて下さい。 これからも応援お願いします。