年度初めこそ、少し抽象的議論をということで、今回は、高校内居場所カフェについて、少し「哲学的に」考えてみたいと思います。
引用するのはいつもの代表田中のyahoo!記事で、「未来、群れ、変な大人~高校生居場所カフェほか『サードプレイス』論」というものです。
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「若い魂たち」を、サードプレイスの「変な大人」が癒やす
コンフリクト・摩擦をネガティブなものとしてくくるのは、あくまで近代社会(その尖兵である一部の保守的な教師)だ。そして哀しいことに、ポジティブなブラウン運動を担うハイティーンは、近代の尖兵たちにいつも説き伏せられる。
だからこそ、「変な大人」の教師がそこには必要になる。近代の規範から多少逸脱する少数の教師たちは、生徒にとって救いである。
が、原理的に規律規範側に属してしまう「変な大人」教師には、やはり限界がある。
そこで登場するのが、サードプレイスの中にいる「変な大人」だ(「変な大人」が子どもを癒す~「変な大人」論1)。高校生居場所カフェでいうと、そこにいる若きスタッフでありながら変な大人でもある人たちだ。
これら、変な大人が、その変度には濃淡があるものの、存在そのものでハイティーンたちを勇気づけることは確かなのだ。やがてはハイティーンたちの多くは変ではない社会(一般社会)にも戻っていくことになるだろう。
が、当事者がどこを目指そうとも、規律社会に傷つけられサードプレイスに流れてきたそれら「若い魂たち」を、サードプレイスの人々は癒やす使命がある。
その、癒やす人々が「変な大人」であり、サードプレイスの元からいる住人たちだ。
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珍しく真面目に書いていますので、テツガク好きな方は全文お読みいただければ幸いです。モーニングとなりカフェをどうぞよろしくお願いします!





