2016/06/02 22:41

夫の応援レポート3回目です。

 

 

 

 

 

第三回 クラシカルな孤独

 

 

彼女は、なぜか古いものに惹かれます。

たとえば、食器や家具、喫茶店。時の香りを漂わせる、そんなクラシカルなものを好む傾向にあるようです。
どうして、と訊ねたことはありませんが、きっとそれらには大河の流れをじっと見つめたときに感じるような特別な情感のようなものが見え隠れするからなのだろうと思います。脈々と時間をかけて流れ、受け継がれ、現在(いま)の空気と混ざり合う、そんな月の光のような孤独な輝きを、彼女はいつも見ているのだろうと思うのです。

それは矢継ぎ早に過ぎ去っていく日常において、確実に歩を進めることのできる彼女らしい姿と、よく合います。

ーできるかぎりー365日、同じ時間に目覚め、同じように作業に向かう。
もちろん例外はあります。けれど、できても、できなくてもまずは作業台へ向かう。そして孤独に立ち向かうように作業を行う。酵母を見極め、材料を量り、素材を選ぶ。人間は例外なく孤独を恐れるのだろうと思います。仲間を欲し、自らをなだめてくれる言葉を欲しがるのだろうと思います。それはとても自然な行為です。けれど、彼女が向かう朝の作業台には、孤独があります。彼女は自ら、穴のなかに潜り込むようにして、孤独と対峙します。そして、酵母や小麦や道具を使い、自分の頭の中に描いた作品をこしらえます。

 ーーどうして、四時に目覚め、九時を回ると眠りにつくのですか。

 たまたま、そうなっただけだと、彼女は言います。
 けれど、明け方には夜とはまた違った静けさがあります。目覚めない心配よりも、明けていく希望が見え隠れします。食べ物の味は、こういう部分にこそ、実は、なにかわけのわからない力が潜んでいるような気がします。

ーー素材の組み合わせに関して

 季節、今の時期だから手に入るものをまずは優先しつつ、あとは食べてくれる人の顔を想像すると、自然と浮かんでくる、と彼女は言います。
 季節が巡るのと同じように、彼女の生み出す食物も変わっていきます。桜には桜の季節のものを、紅葉には紅葉の季節のものを、メイユールヴーと訊けばフランスの風を纏います。気分がいいと、彼女のマフィンは2.5倍の大きさになります、というのは冗談です。

僕たちは丘の上にある古い家に住んでいます。
庭があり、彼女の工房があり、井戸があります。
庭には、いくつかのハーブや、オーストラリア生まれの植物があります。
この場所は、二人で長い時間をかけて収集した物もたくさんあります。
占い師が夜な夜な水晶玉を磨くように、僕らもまたひっそりとここで灯台の明かりのような道しるべを磨き続けています。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」

こう記したのは、鴨長明です。

「無常」という言葉があります。

常に同じではない、そういう意味です。僕ら自身も、僕らの周囲もまた、いつまでも同じではありません。

「ぶれない」ということが、良いことのように言われて久しくありません。
でも、彼女も僕もぶれまくりです。そうやって自然でいることの方が彼女にとっても僕にとってもよっぽど大切なことです。

きっと彼女はこれからもずっと、変わりゆく景色の波を、朝日に照らされながらサーフィンでもするように喜んで駆けていくのだろう、と思います。(彼女はその昔ボディボードをやっていたことがあります)

意識的に孤独と対峙することは、まるで丘の上に生える一本の木になった状態のようです。あるがままの状況を受け入れ、天候を受け入れ、動物や人の想いを受け入れます。

ただ、ただ、受け入れます。

でも、彼女の中で時間をかけて孤独を育て来たからこそ、特徴を持ったものをこしらえることができるのではないだろうかと、僕は考えます。

 菅原道真は、伝説や逸話の多い人物であると言われていますが、「くわばらくわばら」もまた所以を道真公にあると考えられているようです。道真公のお亡くなりなられたあと、各地で自然災害などが起こったという伝説は有名なお話です。
 そんななか道真公の故郷にあった「桑原」にだけは雷が落ちなかったようで、それ以来、雷よけのおまじないとして言い伝えられた、というのが、数ある説のなかでもっとも有名なお話のようです。どうして、そんなおまじないをタイトルに設けたのか。

 答えは次回、明かされることになります。