大淀の風景が人々の記憶から忘れ去られようとしています

かつては宮崎市誕生の礎となつて大いに繁栄していた宮崎市の大淀地区。近年その大淀地区の風景・祭り・遊び・生活の記録等々が次第に風化し、人々の記憶から忘れ去られようとしています。
そこで私たち「大淀マチオモイ帖製作委員会」は、2014年より大淀地域の有様、出来事、名物のお店など、忘れがたい想い出を綴って冊子に纏めた「大淀マチオモイ帖」の作成を始めました。
「大淀マチオモイ帖」を発行することは、家族や友人、地域との繋がり等、自分を育んできた大切なものを思い起こし、見つめ直すことだと思います。大淀、そして宮崎を愛する皆様の温かいご支援を心よりお願いいたします。
一人ひとりが育ったふるさと大淀の記憶を残したい

改めましてこんにちは。「大淀マチオモイ帖製作委員会」です。メンバーは全て大淀育ち。大半が団塊世代と呼ばれる世代で、本年より70代に突入します。
一人一人が自分の育ったふるさと大淀の記憶を思い起こすことのできる間に、それを後世に残そうと3年前から「大淀マチオモイ帖」を制作しています。
現在第4集まで発行しており、100名超の方々が新聞などでマチオモイ帖の存在を知って冊子を購入されています。これらの方々から寄せられる感想では、誰しもが「子ども時代の想い出が懐かしく甦ってくる」と述べられています。
そして、それらの記事や写真に触発されて「自分にはこんな想い出がある」「こんな遊びもあった」「忘れられない味があつた」等々購入者から投稿者へと“転身”される方も出ています。
大淀地区の高齢者は「歩く地域図書館」

大淀地区の高齢者が1人なくなることは、「大淀地域の古い図書館」がひとつなくなること。今日もどこかで大淀地域の歴史や伝統行事、祭り、しきたり等についての「知識」がひとつづつ消えています。
ですからマチオモイ帖は、傍観しているだけでは失われていく大淀の記憶を掘り起し、まとめ、冊子として後世に残していこうとするものです。
これらの「地域図書館」に記述された大淀の街並みや暮らしの在り方の変貌は、必ずや50年後、100年後に宮崎で生活している方々にとって貴重な資料となるだろうと確信しています。
宮崎の繁栄を支えた「大淀村」

かつて日豊本線が開通するまでの宮崎は海運による通商がほとんどでした。上方からの物資は千石船で赤江港に入り、早瀬船などに積み替えられて「大淀村」を経由して各地へ運ばれたのです。
大淀の中村町には商店商社や飲食店・料亭・遊郭などが立ち並んでいました。明治13年大淀川に初めて橘橋をかけた福島邦成、宮崎交通を設立した岩切章太郎など宮崎市の発展に大きく寄与した先人たちのほとんどが、大淀の中村町に住んでいました。

県内初のショッピングセンターができたのも大淀。ボーリング場、スケートリンクなどのレジャー施設もあり、多くの市民が押し寄せていました。
このような繁栄期に大淀で生まれ育った方は何十万人もいるはずです。そして、その方々の想い出は何十万通りあるはずです。それらひとつひとつを地道にまとめ上げて行けば、第5集以降、第10集までの発行が可能であると考えています。
50年後、100年後につなげる貴重な資料にしたい

私たちは、マチオモイ帖を通じて、大淀地区が宮崎市誕生の礎として大きな役割を果たしていたことを改めて再認識し、先人たちの功績を誇りを持って伝えたいと考えています。
今後の大淀地区の活性化については、行政や商工会などと連携して50年後、100年後を見据えたまちづくりを模索して行きたいと思います。
「大淀マチオモイ帖」は、その役割を過去を懐かしみ振り返るだけの冊子とはせずに、新たなまちづくりに向けた提言を含む冊子として発行を続けて行きたいと考えています。
大淀で育った皆様、大淀にご縁のある皆様、夏はダイエーのプール、冬はスケートリンクで遊んだ思い出のある方、宮崎を愛する皆様、どうぞ温かいご支援ご協力をお願いいたします。
【頂いた支援金の使い道・内訳】
60% マチオモイ帖第五集制作費/印刷費
20% リターン品、送料等
20% FAAVO手数料
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手作り「あく巻き」はこうして作られます
2017/07/09 18:29手作り「あく巻き」は次のようにして製造されます。 ①「あくまき」を包む竹皮は近隣の竹林から採集して天日干しして保存します。 ②「あく巻き」を炊き上げるための薪は火力の強い天然の樫などを使います。 ③灰汁(あく)は鹿児島県大隅半島の良質なものを取り寄せて使用します ④もち米は宮崎県新富町で栽培されたもち米を24時間浸し、竹の皮に包んで2時間半かけて炊き上げます。 ④こうして二つの釜で「あく巻き」は50個前後製造されます。 もっと見る
8月発行予定の第5集の内容紹介
2017/07/05 09:34平成29年8月末に発行予定の第5集の表紙は、58年前、昭和35年の大淀小学校の写真です。当時は南側の校舎はまだ木造だったようで、運動場では父母たちの競技が行われている様子からすると、秋の運動会の写真だろうと思われます。 この第5集では元宮崎県文化財保護審議会会長だった甲斐亮典先生が執筆された「宮崎民族学会」の機関誌「みやざき民俗」第68号から「川の名」考についてを転載させて頂きました。 それによりますと、戦国大名・伊東義祐が16世紀半ばに書いたと伝えられる「飫肥紀行」に ”神代よりその名は今も橘や 小戸の渡りの舟の行く末” という歌が残されていて、この小戸の渡りが転じて「おおよどがわ」に転化したのではないかという説と、水量豊かに大きく淀んで流れる川と言う自然の姿から「大淀川の名称」が生じたものではないかと書かれています。 写真は現在の大淀川です(国土交通省九州地方整備局 宮崎河川国道事務所提供) また、第5集ではこれまで「マチオモイ帖」の印刷をお願いしている北一株式会社のご厚意で表紙の大淀小学校の写真を含め懐かしい写真5枚を掲載することになりました。 写真①は昭和30年代の三角茶屋うどんの外観です。第4集で掲載した「夕日に魅せられた川端康成と日向路」の中で紹介した川端康成が天ぷらうどんを食べた頃は三角茶屋うどんはこんな外観だったのです。 写真②は南宮崎駅前の様子で、多くの飲食店が立ち並んでいる様子が良く分ります。第4集で紹介した「みきや食堂」もこの一角にありました。 写真③は元有明旅館(現在はビジネスホテル有明)の通りで、当時は有明通りと呼ばれていたようです。道幅は現在より随分と狭く、突き当りに南宮崎駅が見えています。 写真④は昭和33年の大淀川で、大淀川河口に現在でも残っている「千本杭」が見えています。赤江港では丸島の南側(大淀側)に上方などからの千石船を係留させていたので、その岸壁近くの水深が浅くならないように、砂の流れを防ぐ(調整する)目的でこれらの千本杭が打ち込まれたということです。最初の千本杭は江戸時代の終わりに杉丸太などが打ち込まれたと言われていますが、現代の千本杭はコンクリート製になっていて主に大淀川左岸堤防沿いに設置されています。写真の千本杭は丸島の南側(大淀側)に残存している杉丸太の千本杭だと思われます。 その他、第5集には昭和20年代の終わりに宮崎市内を走っていたトレーラーバスの写真も宮崎交通広告宣伝部より提供して頂き、「トレーラーバスとカバヤキャラメル」の中で掲載しています。 もっと見る
マチオモイ帖第4集
2017/06/30 15:45第4集は昭和40年頃の橘橋南詰の石坂屋旅館から中村東1丁目にかけて建ち並ぶ商店街が表紙となっています。 この第4集では、マチオモイ帖製作委員会のメンバーである遠山智子さんに生まれ育った中村町2丁目界隈の想い出を綴ってもらいました。 だるま屋肉店ではコロッケ販売が始まり、10本100円のウインナーソーセージも発売されたそうです。久保田魚屋では刺身一人前100円だったことなど当時の商店街の賑わいが伝わってきます。 通りの向かい側には宮崎交通社長だった岩切章太郎さん宅のバラ園があり、春になるとそのバラ園が市民に開放されたそうです。写真は昭和40年頃の中村西2丁目界隈の商店街。大きな樹木のある建物は福島医院です。 天神町エッセーと題して曽我國治さんは天神町1丁目の製麺屋(湯浅うどん製麺所) 、てんぷら屋(島崎かまぼこ店)、飴玉屋(七福堂)、3丁目には太田観音さん、太田保育所、その向かいは岐部竹屋、その並びには柿塚石材店、丸山くろんぼ屋、4丁目には木村材木、その近くには時任駄菓子屋、上村青果店などがあったことなどを地図入りで紹介して頂きました。 現在の中村西3丁目で歌謡教室を開いている古場邦子さんは、お父さんが鐘紡の主任だったこともあり、カネボウで働く女工さんたちの写真を提供して頂きました。 第3集で宮園さんがピッチングを教えてもらったという元阪神タイガースの選手だった入江淳さんは昭和33年大淀高校が甲子園出場を果たし、その夏の優勝校・山口県の柳井高校と戦った時の写真等を提供して頂きました。 昭和24年に当時の太田2丁目で生まれた佐藤能史さんは夏から秋にかけての楽しみは近くの大淀川での川遊びだったと言います。大山釣具店でゴカイを買ってウナギ、チヌ、フナなどの魚釣りに興じていた思い出を投稿して頂きました。 写真は昭和41年夏材木町から日葡本線の鉄橋(列車が通過中)を望む様子です。 もっと見る




