
平成29年8月末に発行予定の第5集の表紙は、58年前、昭和35年の大淀小学校の写真です。当時は南側の校舎はまだ木造だったようで、運動場では父母たちの競技が行われている様子からすると、秋の運動会の写真だろうと思われます。
この第5集では元宮崎県文化財保護審議会会長だった甲斐亮典先生が執筆された「宮崎民族学会」の機関誌「みやざき民俗」第68号から「川の名」考についてを転載させて頂きました。
それによりますと、戦国大名・伊東義祐が16世紀半ばに書いたと伝えられる「飫肥紀行」に ”神代よりその名は今も橘や 小戸の渡りの舟の行く末” という歌が残されていて、この小戸の渡りが転じて「おおよどがわ」に転化したのではないかという説と、水量豊かに大きく淀んで流れる川と言う自然の姿から「大淀川の名称」が生じたものではないかと書かれています。
写真は現在の大淀川です(国土交通省九州地方整備局 宮崎河川国道事務所提供)

また、第5集ではこれまで「マチオモイ帖」の印刷をお願いしている北一株式会社のご厚意で表紙の大淀小学校の写真を含め懐かしい写真5枚を掲載することになりました。
写真①は昭和30年代の三角茶屋うどんの外観です。第4集で掲載した「夕日に魅せられた川端康成と日向路」の中で紹介した川端康成が天ぷらうどんを食べた頃は三角茶屋うどんはこんな外観だったのです。

写真②は南宮崎駅前の様子で、多くの飲食店が立ち並んでいる様子が良く分ります。第4集で紹介した「みきや食堂」もこの一角にありました。

写真③は元有明旅館(現在はビジネスホテル有明)の通りで、当時は有明通りと呼ばれていたようです。道幅は現在より随分と狭く、突き当りに南宮崎駅が見えています。

写真④は昭和33年の大淀川で、大淀川河口に現在でも残っている「千本杭」が見えています。赤江港では丸島の南側(大淀側)に上方などからの千石船を係留させていたので、その岸壁近くの水深が浅くならないように、砂の流れを防ぐ(調整する)目的でこれらの千本杭が打ち込まれたということです。最初の千本杭は江戸時代の終わりに杉丸太などが打ち込まれたと言われていますが、現代の千本杭はコンクリート製になっていて主に大淀川左岸堤防沿いに設置されています。写真の千本杭は丸島の南側(大淀側)に残存している杉丸太の千本杭だと思われます。

その他、第5集には昭和20年代の終わりに宮崎市内を走っていたトレーラーバスの写真も宮崎交通広告宣伝部より提供して頂き、「トレーラーバスとカバヤキャラメル」の中で掲載しています。







