まさか、お前が……!
いかなる兵士にも休息は必要である。
歓楽の巷で肝臓を酷使しながらも日夜戦っている私とて例外ではない。
昨夜は久しぶりに早く帰宅した。
妻はすでに寝ていた。
私はあくまで休息を取りに帰ったわけであるから、労いの言葉とか、夫婦の会話とかを期待しているわけではない。
それでも、家庭内の冷戦状態というのは、なかなか堪えるものである。
妻は私が浮気をしていると疑っている。
しかも、浮気の相手が妻の友人の女性だと妄想しているのだ。
そんな馬鹿な。
仮に浮気をしようと考えたとしても、服のサイズが20号だというその友人だけは避けるに違いない。
私はダイニングに行き、ガラスのグラスにウイスキーを無雑作に注ぎ、そのまま一口呷った。
アルコールの熱が徐々に体内を下っていくのを感じた。
戦いからは休めても、アルコールからは休めないのが、私の宿命のようだ。
ふと、足のつま先に温かみを感じた。
アルコールとはまた違った柔らかな温かみだ。
視線を落とすと、我が愛犬・ヴァルが愛嬌のある顔で私を見上げていた。
私が足をちょっと動かすと、つま先をペロペロ舐めてくる。
犬はいいものだ。無邪気この上ない。
私の収入が少ないと愚痴をこぼすこともなく、酒を飲んで帰っても嫌な顔をするわけでもない。
金をくれとも言わなければ、してもいない浮気を疑ったりもしない。
私は思わずヴァルを撫でていた。
「お前は本当に可愛いなあ」
転がっていたボールを放り投げてやると、ヴァルは喜び勇んで取ってくる。
愛犬に癒されながら飲む酒も悪くないものだ。
私はいい気分になり、グラスを重ねるうちに、やがて机に突っ伏して寝てしまっていた。
小一時間もしただろうか、意識がやや戻り、同時に何者かの声が聞こえてきた。
「俺だけど。今ようやく時間が空いた」
ん……誰だ。部屋には私の他には誰もいないはずなのに。
「女房なら寝ているから大丈夫」
どう聞いても、私自身の声にしか聞こえない。
そんな馬鹿な!
私は眠いのを堪え、力を振り絞って、声の主の方に顔を向け、瞼を開けた。
ぼんやりとした視界の中で、ふわふわとした小さな物体が映った。
良く見れば、ヴァルが私の携帯を耳に当て、何やら話しているところだった。
ヴァルが電話をしている?
しかも、私の声を真似している!
女房が私の浮気を疑っていたのも理由があったのだ。
ヴァルが私の声を真似して、妻の友人を口説いていたのである。
「ヴァ、ヴァル……」
私の振り絞るような声を聞いたヴァルが、ハッとした様子で携帯を手から落とした。
口が半開きになって、歯が見えていた。
「お前が犯人だったのか!」
ヴァルは私に近づいてくると、私の足のつま先をペロペロと舐めはじめた。
そして私を見上げた。その表情は無邪気そのものだった。
さっきのは幻聴、幻覚だったのか。
それとも、最も怪しくない者が犯人だというミステリーの王道をいく展開なのか。
世界最初の推理小説といわれるエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」も、よく考えればこれくらい荒唐無稽な話だよなぁ、などと考えているうちに、私の意識は再び遠のいていった。