最初に断っておきますが、長々と書きます。
僕は上京するまでの18年を山陰で過ごしました。
生まれたのは島根県益田市。
津田という海辺の小さな町です。
益田は島根の西端に位置し、文化圏的に広島や山口に近いところです。
余談ですが、父親は広島東洋カープのファンです。
僕の幼少期から少子高齢化が進んでいて、津田の町はお年寄りばかりでした。
ただ、そういったお年寄りの方々から色々な物語を聞いて育ったのかもしれません。
ビルマ戦線へ軍医として従軍された故中島先生や波瀾万丈の人生を送っている祖母から。
この夏帰省したとき、祖母の幼少期、戦後の貧しい生活の中で母親や兄に連れられ花の行商に出ていたこと、祖母の父つまり曾祖父が遊び人で、よくめかし込んで街に繰り出していたことなどを聞きました。
僕は夜の海をよく見に行きました。夜の海には烏賊釣り漁の漁火が煌々と瞬き、空には天の川が流れていました。街灯はほぼ無く、人家の灯もほぼ無く。
小さい頃の僕は漠然と、ここを出て海の向こう側に行きたいと思っていました。
漁火の灯を海の向こうの国の街灯りだと思っていたくらいです。
これは、僕の映画に対する考えと同じで、映画は彼岸の風景であるべきだ、スクリーンの向こう側の別世界であるべきだと考えています。
おそらくそれは、津田の夜の海で過ごした時間が根本にある気がします。
僕は父親の転勤により小学校の三年生から五年生をお隣鳥取県米子市で過ごしました。
余談ですが、夏は毎年大山に登っていました。後年、志賀直哉の小説「暗夜行路」で、大山の登山道からの展望の描写を読んだときは感動しました。
益田へはちょくちょく車で国道9号線の約200kmを帰っていました。
つまり、東西に細長い形をした島根県を横断していたわけです。
松江や出雲は通り道でしたが、父親が運転する車の車窓からの風景をよく覚えています。
中海や宍道湖、斐伊川に江の川に日本海。
そして、また益田に戻って中学時代を過ごしました。
15歳の時、今になって白状すると、僕は益田を出たかったという理由で、松江高専へ進学しました。少しでも外側に出たかったからです。高専が一番現実的な選択肢でした。
そんな理由だからやっぱり学業的に挫折します。
そもそも理系が苦手で、全く頭に入って来ないし、面白くなく、学校をサボタージュして(当時、何故か「サボる」をわざわざ「サボタージュする」と言ってました)、狭くて暗くて汚くて廃病院のような寮室で、借りてきた映画のDVDを見まくっていました。当時出会った作品は、溝口健二の「山椒大夫」、スコセッシの「タクシー・ドライバー」、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」、ゴダールの「気狂いピエロ」、トリュフォーの「大人は判ってくれない」、フェリーニの「道」といった作品でした。映画は僕にとって光明のようでした。漠然としていた「ここを出て外側に行きたい」という想念は、「映画を撮りたい」に変わりました。僕は高専を退学し、日本映画学校に入学します。
両親には本当に申し訳なく思います。
ですが当時、それしか考えられなかったのです。
僕は、自分で言うのはどうかと思いますが、放蕩息子だと思っています。
うだつの上がらない20代を過ごし、30歳になって島根に帰ってみると、風土も人も本当に気持ちがいいです。
セブンイレブンができたり、スターバックスができたり、ドン・キホーテができたりと、島根も少しずつ変わって来ています。
けれど、空き家や空き地が増え、当たり前のようにあったものがなくなっています。
益田市で言うと、中学の時に益田競馬場、高専にいる時に小野沢ビルの映画館がなくなりました。今、島根県西部に映画館は一軒もありません。益田駅の駅前通りも再開発されて、全く面白みに欠けた「整備された」街に変わりました。
当然、日本海や宍道湖、中海、そして高津川や江の川は変わらず雄大にあり続けます。
けれど、街並みは時代の流れと共に変わっていきます。僕はまだ残っている今の街を撮りたいと思っています。
久々に帰った松江の街並み、大橋川周辺の街並みは是が非でも映画に遺したいと考えています。
それくらいしか僕には考えられません。
ただ、それはきっちりと映画的な作品に仕上げつつ。
まだまだ書ききれないですが、島根と僕、そして映画についての話でした。
最後まで読んでくださった方も、途中で放棄した方にも感謝します。
永岡俊幸