2019/10/24 13:46

 *「山師イマニシタケシの始まり」レポート前編はこちらから

 https://faavo.jp/miyazaki/project/4036/report/25426

 

【レポート後編】

「保育士になる!」福岡リア充時代

 

高校卒業を目前に控え、夢が無かった私は、どうやって就職を逃げるかを考えていました(笑)

入学した時はなぜか首席で入学したのもあり(新入生代表挨拶読んだ。因みに県庁長尾も福島高校で新入生代表挨拶をしています。6人中2人が新入生代表挨拶は結構凄い)、「卒業したら九州電力に入社だ!」と電気科の先生にもてはやされたのですが(一応電気工事士の資格も持っていますw)、部活三昧だったのもあり卒業する頃には成績はそこそこ。ちょっとゆっくりしたい。就職なんて絶対いや。一回遊ばせて欲しい。という本音を隠し、「俺保育士になって、渡川に貢献する!」という建前を無理矢理つくり、福岡県福岡市博多に旅立つのです(笑)親には本当に申し訳ない。まぁその建前はあながち嘘では無かったのですが。なによりこの進学が無ければ恐らくどがわには帰って来ていないなと、改めて思います。

 

福岡には計5年いました。

学生3年、社会人2年。学生の頃は「学校→バイト→遊ぶ」のエンドレスコース。お金を稼いだら全盛のストリートファッションに身を包み、友達と夜な夜な酒を飲んではクラブに駆り出し、レゲエやヒップホップイベントに。仲間とレゲエサウンドを組んだりしていました(笑)まさにリア充。
ですが根は真面目な田舎者。学校も無遅刻無欠席で行きました。なにより幸か不幸か思い付きで行った福祉専門学校の授業はとても興味深く、かなりはまりました。自分とは立場の違う(社会的に弱い立場)人の気持ちに共感・共有し、相手を支援していく教えを説く内容は、これまで「自分自分」だった自身の価値観を大きく変えていく事になります。

 

都会より「何にも無い」どがわの方が面白い?

 

福岡では沢山の友人に恵まれました。出会った数は数百人にもなるでしょう。モノも沢山ありました。バイトしたお金で欲しいモノも沢山買いました。子どもの頃聞かされた「何でもある都会」をリアルに体現したのです。

 

でも徐々に気づき出すのです。

沢山友達できたけど、同級生6人という限界集落出身は私だけでした。中学校にはプールが無かったから水泳の授業は川だったというのも私だけでした。確かに福岡は大きな街だけど、それは東京に行こうが大阪に行こうがあまり変わりはなく、同じようなお店があって同じようなモノが売っているだけ。肉厚の原木しいたけや天日に干した美味しいお米の方がよっぽど珍しく、人一人の価値もとっても高いのはどがわの方だなと感じるようになるのです。

「なんだ、どがわの方が面白いじゃないか」。何にも無いは一周回って今は「何かある」側なんだな。

 

↑南郷村時代(美郷町前)成人式は夏に行われていました。同級生6人集まりタイムカプセルを掘り、恩師も駆けつけ大宴会。同級生はもはや兄弟のような存在。

なにより保育士の勉強の影響からか、「渡川で子育てしたい」と思うようになりました。

大自然の中で四季を感じながら、地域ぐるみで子育てが行える環境はまさに理想郷だったのです。

 

「どこにいるかじゃない。そこで何をやるかだ。」

 

それまでは「場所」に重点を置いて生きてきたように思います。

田舎から都会。どがわから宮崎市。宮崎市から福岡市。場所が変われば人生が変わって、できない事ができるようになると思っていました。もちろん間違いではありませんが、意外とそれが全てでも無い。

自分の人生を全うするために場所なんか一つの手段でしかなく、一番大事なのはその場所で自分は何をやるのか。何ができるのか。何をやりたいのか。自分にしかできない事は何なのか。結局は自分の芯の部分。自分次第なんだと気づいたのです。

 

↑あの丸刈り少年たちも成人を迎え大人になりました(笑)

 

そして私は人生を終わりから考える事にしました。とりあえず終点から考えてみよう。

人生やりたい事は沢山ある。でも終わりの仕事はきっと一つのはずなんだ。

 

私は最後はやっぱりどがわに帰って来たいと思いました。

そしてどがわで子育がてしたい。

 

↑3人の子宝に恵まれ、どがわで子育てしています。今では小学生になり、田んぼの手伝いやノコギリの使い方もお手の物。春はタケノコ、夏は鮎、冬は椎茸と自然の四季を感じながらすくすく育っています。 

つまり残したいのはどがわの環境であり、それは山と地域。

それを守る為にはどう考えても山師が必要でした。当時2人の兄も就職し山師になる要素はありません。

父親も60歳近くなり弱々しくなってきている。周りの山師の平均年齢も60歳近い。これではずっと守ってきた山は誰が守るんだろう。山師への選択は自ずと決まっていきました。

 

あとその時勤め仕事だった私は、会社の中に所属するのがとても嫌だったというのもあります(笑)仕事は大好きだったんですけどね。黒と思っても白になるのが嫌で。だからいつか自分で会社を持ちたい。だったら父親の跡を継いで山師になろう。いつか会社を興し、大きくして一度諦めた(横に置いた)やりたかった事を一つずつやっていこう。

 

福祉は仕事じゃなくてもできる。「当たり前の生活をする為に欠けるものを補う」のが福祉だ。

それなら地域福祉をやろう。仲間と一緒に地域づくりをプライベートでやっていこう。

 

↑どがわ鯉のぼり祭りには沢山の子ども達が。小学校が閉校した時より子どもが増えたという説も。新築住宅も毎年のように建っています。とっても元気な地域です。

仕事は山師。プライベートで地域福祉。

山と地域を守りながら子育てをしていく。そして将来自分の子ども達がこのどがわで、同じように子育てできる未来をつくる。

それが私の望む未来だと着地したのです。

 

そこからは我武者羅に仕事と地域づくりに突っ込み、現在に至ります。

森林組合で作業班をする傍ら農産物を直接販売するインターネットショップ「渡川山村商店(どがわさんそんしょうてん)」を立ち上げたのが2012年。原木しいたけの生産の規模拡大、原木しいたけオーナー制度の開始、ジビエ料理の普及発信(2019年念願の美郷町にジビエ食肉処理施設ができました)、移住者の受け入れ、山師の育成と、全く手が足りない中突っ込みながら、2017年「山と街を繋ぐ」がコンセプトのリアル店舗の「若草HUTTE&co-ba miyazaki wakakusast.」をOPENしました。
帰ってきてからはだいぶ端折りますが、もう本当に大変でした(笑)田舎でのチャレンジは辛い事の方が多かった。家を継ぐというのもほんと大変だし。そしてそれは今もそう(笑)でももう思い出したくないので良い事だけ書きますね(笑)

 

↑10年空きビルだった場所をリノベーション。元は違法駐輪と猫の住みかで荒れ放題、通りは空き店舗だらけで人通りも少なく暗い通りだった。

 

↑「山と街を繋ぐ」がコンセプトの若草HUTTE。2・3階にはコワーキングスペース「co-ba miyazaki wakakusa st.」。ジビエを使ったランチや椎茸を使ったスイーツ、美郷町の農産物の販売を行い、イベントスペースとしても大活躍。今では通りの空き店舗はゼロに。限界集落発のお店ながら、中心市街地の活性化に貢献。ヒュッテが出来てからの街の賑わいを通称「ヒュッテ効果」という(自称)。 

若草HUTTEのお陰もあり、現在沢山の方に「山師」という仕事を知ってもらい、「どがわ」「美郷町」という場所も沢山の方に知ってもらい遊びにも来ていただいています。

今では美郷町のPR委託事業も受託するようになり、美郷町の街づくりにも大きく関わっていく事になりました。

 

20歳前半に諦めた「飲食店いつかやりたいなー」「会社もちたいなー」(まだ個人事業主ですが、来年法人化します)というのも気づけば達成。

「移住者来ないかなー」「どがわをもっと盛り上げたいなー」「美郷町も盛り上げたいなー」「山師の人材育成していきたいなー」そんな走りながら次々に湧き上がる夢も、一つずつ到達・実現できています。もちろん出来ていない事も沢山あるけど(笑)

 

「夢は向こうからやってくる」

 

今キャリア教育の講演や授業の時に子ども達に話す言葉です。

「今夢が無くても、自分の人生を一生懸命に生きていれば、必ず向こうから夢が歩いてやってくる」と。

勉強でも部活でも遊びでもなんでも良いんです。目の前人生に我武者羅に突っ込むことができれば、闇雲に探さなくてもおのずと夢の方から来てくれるだと思います。私はそんな人生でした。

 

 

 

「山師は嫌だ、が山師になった。」

 

山師になりたくなかった少年は、大人になって山師になりました。

それは自分の人生を諦めたのではなく、自分の人生に必要なものを探し続けたら、たまたまそうなっただけなのです。

これだから人生は面白い。人生は無限大です。望めば何者にでもなれます。そう山師でも(笑)

↑毎年インターンシップで大学生もやってくる!みんな山に集まれーー!

 

「山師の仕事は本当に面白い!やりがいは別格。」

 

山師になって気づくことは沢山あります。

何より1番感動する事はこのスケール感です。

「自分が伐る木はじいちゃんが植えた木。自分が植える木は子どもと孫が伐る木」

この1ロット50年という単位でやる仕事ってなかなか無いと思います。福岡でバイト含めいろいろ経験しましたが、このスケール感を持った仕事はありませんでした。100年後、もしかしたら自分のやった仕事が残っているかもしれないんです。そんな仕事なかなか無いですよね。ワクワクしませんか?一度経験すると病みつきになりますよ、きっと。

 

↑この杉の木が収穫できるのは40~50年後。未来の水や空気を生み出します。

 

「スーパーマンじゃなくても山師はできる」 

 

山にはまだまだ人が足りていません。

現場の平均年齢は60歳を超えました。いくら私が頑張ってもこの広い山は管理できません。

街に住む皆さんの力が必要なんです。木を植え、草を刈り、木を育てる。スーパーマンじゃなくてもできる仕事です。

誰でもできます。健康な身体さえあれば、決して体力自慢である必要はありません。

最初はもちろん大変でしょうが、大丈夫。私が優しく教えますから(笑)あ、今は女性でも林業ができる時代です。林業女子になりませんか?更に優しく教えますよ(←セクハラです)。今日本中で林業女子が活躍されていますよ。どんどんそうなって欲しいと思っています。

 

とは言え山師になる事はそんなに簡単に決断できるものではないでしょう。

だからまずは知って欲しいんです。林業の仕事を。山師の世界を。

想像するよりも大自然で過酷な環境で、山師は仕事をしています。でも決して悲観的じゃ無い。四季折々の表情を変える山々の中で、楽しく笑いながら仕事をしいるんです。

↑19歳新人山師。怒られながらも頑張って働いています。

 

この山師カレンダーを一つのきっかけにしたい。

山師という仕事が子ども達の「選択肢」になるよう。山師という仕事が日本で「社会的評価」を得られるよう。そしてそれが山師の誇りとなるよう願うばかりです。

 

でもやっぱりあれですね。

最終的には「山師の本屋」で毎年山師カレンダーの販売ですよね(笑)ついでに少年時代の夢も叶えちゃいましょう(笑)

次は本屋か~「HUTTE BOOKS」とかにしようかなーーー。山関連の本、セレクトブックストアか…ありだな~。

 
という訳で長くなりましたが、私が言いたいのはこれだけです!!

 

皆さんのご支援、心よりお待ちしております!!!

 

いや、ほんとに宜しくお願いします(笑)

 

 

俺たちは山師!!!未来の日本を作るんだ!!!!

 


*「格好良い山師カレンダーを作りたい!」クラウドファンディング!ご支援はこちらから!宜しくお願いします!

https://faavo.jp/miyazaki/project/4036