2019/10/22 12:22

将来の夢は「山師にならないコト」

 

夢の無かった少年時代。

学校での「夢の作文」の授業が嫌で仕方がなかった私。

周りは「野球選手になる!」「サッカー選手になる!」というオーソドックスな夢…と思いきや、さすが限界集落どがわ地区。

「将来はレスリングでオリンピック金メダルをとります!」がクラスの3分の1を占め(少年レスリングクラブがあった。因みに同級生は6名)。他所とは異色の同調圧力が働いていたのを思い出します。女の子で「山師になります」って子もいたなー。

今は年数回、キャリア教育や立志式等で学校の講演に及び頂くことも多いのですが、今の学校でもやっぱり「夢」について半ば無理矢理語らせる授業多いですよねー。あれいるのかなーー。子どもに無理矢理夢を語らせるのは大人の自己満では無いのか…やばい!話題が暗くなってきたw

 

そんな訳で白紙に提出する訳にもいかなかった私は(割と優等生でした)、無理やり「本が好きだから」という理由を作り、「大人になったら本屋になります」と書いたのを思い出します。今考えると笑える反面、山師の本屋もありだなーなんて思ったり(笑)人生どこで繋がるかわかりません。

 

でも本心は「山師意外だったらなんでもいいや」。そんな感じでした。将来山師になることだけは肯定できなかったのです。

 

じいちゃんも親父も山師

 

宮崎県北部の山間部に育った私は、じいちゃんも父親も山師という家庭に育ちました。特段珍しい事もなく、県北山間部ではごくごく一般的な家庭です。山師をしながら、原木椎茸をつくり、米をつくり、牛を養い、お茶…柚子…栗…と兼業兼業で生計を立てるスタイルがスタンダード。今思えば兼業に兼業を重ねリスク分散するのはとても理にかなってて、これからの仕事の在り方としてもフィットするんじゃないかと思うのですが、そんな理想的な物では無く、大きな産業が無いから、あれやってこれやってなんとか食いつないでいく感じだったんでしょう。

 

↑米作りも山師の仕事。昔は山の落ち葉を田んぼに入れて肥料にしていました。なので「山が肥えれば田が痩せる。田が肥えれば山が痩せる」と言われました。農業と林業に境界なんて無いんだぜ!

昭和後半に生まれた私は、平成前半育ち。

その頃になると林業が衰退し、「過疎」が連呼され、「お前の住んでる地域やべーよ」感が地域全体を取り巻きだした時代でした。当時はどがわに抜けるトンネルもなく、保育所から中学校まで同じ同級生(良く言えばエスカレーター式の幼少中一貫校w)で、会う大人は親か地域の大人か学校の先生という3択。そんな閉鎖された環境で育った子ども達には、大人の言葉は絶対でした。


「山師にはなるな。山師は下の下の仕事だ」

 

良く父親に言われた言葉はこれです。

「渡川には何も無い」「何でも有る都会に出て働け」、「山師は下の下の仕事だ」「会社に勤めて良い仕事をしなさい」。

今なら一言言い返したいフレーズですがw当時小さな世界で育った私は、これが当たり前なんだと疑いもしませんでした。だから山師になる気はさらさらありませんでした。もちろん親としては子を想っての言葉だったんだと思います。
親だけでなく、地域の大人の口癖みたいなもんでした。今でも良く聞く言葉ではあります(だいぶ少なくなってきた気もするけど)。こんな言葉で育ったら山師になんかなりませんよね。地域に帰って来たいとも思わない。大人がどんな言葉を発し、どんな背中を見せるかというのは、地域の未来にとってとても重要な事なんだと思います。

 


↑本邦初公開w渡川中学校入学式。まだ強制丸刈りの時代。県庁長尾も居ますよ。


「卓球部に打ち込んだ高校時代」

 

どがわ地区には高校がありません。

最寄りの高校でも車で1時間半。公共機関はほぼ無し。なので中学校を卒業したら家を出ます。

夢の無かった私は中学時代の卓球部(一人でもできるという理由で、中学校にはこれしかなかった( ;∀;))の延長で、「宮崎県で一番強い高校に行ってみるか」と当時県下最強の宮崎工業高校に進学しました。当時県16連覇?くらいしていたそこは県外からも寄せ集められてくる超エリート校で、水も飲めないようなボール拾いからのスタートでした。もちろんいきなりの挫折w田舎者が都会の洗礼を受けたわけです。まぁでも3年間朝から晩まで卓球を頑張りまして(朝練が7時から。夜は21時過ぎまで練習。一人暮らしだったのでそこから自炊してた。今でも良くやったなーと思う。)、終わる頃にはキャプテンまで上り詰め、九州大会団体戦優勝・インターハイベスト16の結果を残しました。

 

↑高校3年、キャプテンで迎えた岐阜インターハイ。レギュラーでキャプテンだからと言って団体戦に出られる訳では無い。団体戦1試合も出ることなく、試合前と試合後の握手だけ偉そうにする握手キャプテンとして大活躍。ベスト16で愛工大名電に負けました。春の選抜では当時のスター軍団青森山田にもボコボコにされました。もちろん握手したのは私です。


「俺たちで、どがわをいつか盛り上げたいな」

 

盆と正月。年に1・2回しかどがわには帰れませんでした。

そんな時同じように帰省する仲間と会うのが恒例でした。

今のどがわ地区活性化を御存じの方ならピンとくると思います。

こんにちやの園田。渡川one代表の上村。県庁の長尾。ブロイラー社長の黒木。そんな面々と久ぶりに集まっては「どがわヤバイやん!どんげかせんと!これじゃいかんわ!いつか帰ってきて盛り上げようや!」と冗談半分でそんな話をしていました。←今考えるとヤバイ高校生だなw

 

↑高校1年生?巴とエネルゲンのボトルが懐かしいwあくまでも巴は持っているだけですw

 

 ↑20歳くらい?みんな福岡や大阪、東京にいた頃にとりあえずなんかやろう!とこんな事開催してましたw懐かしいなー。内容は覚えて無いけど、どんなことやったんだろうw20年経った今…あんまり中身変わって無いのかも俺たちw

 

 

その「いつか」がどんどん早まり、想定より早く(20代前半)帰ってきた私たちは、地域活性化団体「渡川ONE(どがわん)」や「どがわ未来会議」を立ち上げ、300人中30代以下が100名という奇跡にも近い限界集落へとなっていくのです。

 

 

後編へつづく…

 

 

 

↑2010年に結成した地域活性化グループ「渡川ONE(どがわん)」。新婚で子どもが生まれたばかりの金が無い時期に、「渡川小学校の閉校記念Tシャツを作ろう!」と一人5万円手出しをしてスタート。よくやったなー(笑)もうすぐ10年になる閉校した学校を使った「どがわ鯉のぼり祭り」。地域に眠る鯉のぼりを掲げ、どがわに特化した内容のイベントを開催。今では300名の地域に200人の参加者(どがわ外からも)を生むイベントとなりました。