

『つる舞う形の群馬県』
上毛かるたの代表的な存在であるこの札は、その文言の通り、群馬県の形を表現しています。
明治時代に作られた石原和三郎作の小学唱歌に「晴れたる空に舞う鶴の形に似たる上野(こうずけ)は・・・」と詠われた事がその由来と言われています。
しかしながら戦時中は戦意高揚のためか、県の形を南北逆に見て「鶴」を「ワシ」や「タカ」と表現していたといいます。時代が違えば、もしかしたら『ワシ舞う形の群馬県』になっていたかもしれません。
さて、群馬県民ならば誰もが知っているこの『つ』の札ですが、実はそれ以外に隠れた意図があった事をご存知でしょうか?
財団法人群馬文化協会の元理事長であり、上毛かるたの生みの親である故浦野匡彦先生の長女:西方恭子さんが書いた『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』の116~117ページにはこのように記されています。
~以下、抜粋~
『敗色濃い日本に対しソ連は、1945年(昭和20年)8月9日、日ソ中立条約を一方的に反故して対日宣戦布告し、ソ満国境を雪崩打って進軍し、開拓民や一般居留民婦女子を蹂躪と略奪の恐怖に落しめ、将兵や男性約57万人を本国帰還と偽って列車に乗せ北上、極北の地シベリアに連行したのであった。
シベリア開発の為に強制労働に従事させられ、飢えと寒さで倒れて凍土の露と消えた同胞は約6万人に達したのであった。
これら国際法違反を犯していながら極東裁判の原告に列するソ連の不当性を主張し、GHQやソ連大使館に即時解放と期間促進運動を展開していたのも同胞援護会である。
「三度の冬を迎えなんとしている同胞よ!祖国日本は君等を見捨てない!家族の許に無事帰還する日まで頑張り、せめて飛び立つ渡り鳥鶴に心を託し一歩でも二歩でも南下してほしい!必ず救出する。」の誓いの札でもある。』
~以上~
上毛かるたを作成した浦野匡彦先生も戦時中は満州に居ました。
そしてかるたが発行されたのは終戦から2年後の1947年。上記の通り、戦後もシベリアで強制労働をさせれれている同胞を一刻も早く解放させたい。
上毛かるたを発行するにあたり、当時GHQ司令部に何度も検閲を受けましたが、つの札にはそんな隠れたメッセージがあったのです。
出典:『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』 西片恭子 著





