新しく上毛かるたを購入して箱を開けると、ある事に気づかないでしょうか。
それは、必ず『い』と『ら』が一番上に置いてあり、この2つの読み札だけ赤色になっている事です。
これ、何故だかわかりますか?
実はこれには上毛かるたを製作した浦野匡彦先生(元二松学舎大学理事長・学長)のある思いがあったのです。
戦後、中国大陸から故郷群馬に引き揚げてきた浦野先生は、荒廃した日本を復興させる為、子供たちの為にカルタを作って郷土群馬の自然や産業、そして人物を知ってもらい、郷土愛を育もうと考え、『上毛かるた』の製作に取りかかります。どのような札を作るかについては1947年に一般から公募を行い、原案を作り上げました。
しかし敗戦後まもなくはマッカーサー率いるGHQ(占領軍司令部)の許可がないと印刷物の発行ができませんでした。その為、上毛かるたの原案をGHQに届けて発行許可を求めると、軍国主義の復活を警戒して数人の人物を札から除外するよう命令が下されました。その中に「小栗上野介」の札があったのです。
なぜ小栗上野介がダメなのかと食い下がったところ、「小栗は横須賀の軍港を作った人物だから軍国主義者だ」というGHQ判断からでした。浦野先生は、小栗が渡米して15代大統領のブキャナンに会っている事や、アメリカの進んだ文明を見て日本もこのような近代国家にしたいと考えて建設したのが横須賀造船所であり、単なる軍艦製造所ではないことを説明したのですが、最後までGHQの判断が覆る事はありませんでした。
また小栗上野介の他にも、国定忠治や高山彦九郎、中島知久平(中島飛行機創業者)などもGHQから札から除外するよう求められました。結局命令通りこれらの札は他に代えて上毛かるたは発行されたのですが、『いずれ時が来たらこれらの札を復活させる』という強い気持ちを表現するため、群馬特有の気象現象である強い雷と空っ風を示す札を作り、読み札を赤く染めたのです。
それが、「ら:雷と空風 義理人情(らいとからっかぜ ぎりにんじょう)」です。つまりこの赤い札は、GHQの強硬な除外命令に対する精一杯の抵抗だったのです。
これに加え、荒廃した日本に早く元気を取り戻してもらいたい、その活力を群馬から発信したいという思いからいろはの最初の文字である「い」の札も赤く染められ、上毛かるたの箱を開けた時に目立つよう、必ず一番上に置くことにしたのです。
ちなみに原案での小栗上野介は、 「ち:知慮優かな 小栗も冤罪(ちりょゆうかな おぐりもえんざい)」 だったそうです。結局この札は実現しませんでしたが、その代わりに「ち:力合わせる百六十万(現在は二百万)」という、群馬県民の団結力を願う札が生まれています。
今となってはあまり知られていない上毛かるたの真実。我々はこれらを『スマホアプリ』という形で沢山の人に知ってもらい、現代に伝えていきたいと思っています。
出典:『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』 西片恭子 著