このプロジェクトの企画者である加藤木が、ウイズタイムハウスの活動を始めることになるまでの、様々な出会いを、少しずつご紹介していけたらと思います。 私が人生で初めて、社会的な課題、福祉的な問題に関心を持ったのは高校生の頃、「ハンセン病」の問題でした。 「ハンセン病」は今では日本ではほとんど新しい患者は発生していない、感染力の弱い病気です。しかし、かつては日本にもたくさんの患者さんがいて、病気が進行すると手足や顔が麻痺したり変形するなど外見の変化が起こることもあって、差別されてきた歴史があります。そして、日本では「らい予防法」という法律の下、ハンセン病にかかった人は一生涯、療養所に隔離された人生を送っていました。 1940年代に治療薬が開発されて以来、治療方法がどんどん改善されて、世界では隔離ではなく在宅療養で治療できることが常識になっても、日本の隔離政策は変わりませんでした。 ようやく日本の隔離政策が廃止されたのは1996年、私が16歳の時です。 病気になったことを理由に、自分自身の人生を自分らしく生きることを許されなかった人が、こんなに最近まで身近にいたこと、そしてそれを私が知らずに生きていたことに、高校生時代の私はショックを受けました。 私に何かできることはないかと、大学時代は都内にあるハンセン病療養所にしょっちゅう通っていました。 そんな中、当事者である森元さんにとても可愛がっていただきました。森元さんはこどもの頃病気になって、なんとか社会復帰したいとがんばり、一度は療養所を出て大学も出たものの、無理がたたって病気が悪化し、長年隔離生活を生きざるを得なかった方です。らい予防法廃止後、60代になってようやく療養所を出て、今でもハンセン病問題の啓発活動をしています。 ハンセン病問題から私が学んだことはたくさんありますが、特にウイズタイムハウスとの関係で思うことを挙げたいと思います。 それは、人が人生の中で、病気になったり障害を持ったり、どんな困難が目の前にある時でも、「自分で自分のことを決める」という権利は、誰にも奪うことができないということです。 どこに住みたいか、誰と住みたいか、どんなふうに働いて、どんな余暇活動をするか。それは自分で決める権利があります。「大変そうだから代わりにやってあげよう」という善意であったとしても、他人が「決める権利」を奪うことはできないことを、特に福祉の専門職は意識していなければならないのではないかと、いつも私は実践の中で思ってきました。 ハンセン病療養所には、お店も、宗教施設も、郵便局も、生活に必要なものは何でもあります。療養所の外に行かなくても十分に暮らしていくことができます。療養所がそういう体制だったのは、もしかしたら必ずしも差別意識で隔離をすることだけが目的ではなくて、「差別を受けてきた人を保護してあげよう」という専門職による意識もあったのではないかと、私は思っています。でもそれは、療養所の中で暮らすことを、本人の意思と関係なく強いていたことの免罪にはなりません。 ウイズタイムハウスは、ハウスの持つ機能だけでは、福祉を必要とする人の生活をすべて支えることはできません。でもあえて、ウイズタイムハウスだけですべてをやるのではなく、外に向かって開いていきたいと思っています。入居者が介護が必要になれば、外から介助者や支援者に来てもらう。入居者が働く場は地域の別の場所に。ウイズタイムハウスで過ごすのは入居者だけではなく、ご近所さんにも開いていく。ウイズタイムハウスに関わる人を支えるものは、多様でありたい。 それが、私がハンセン病問題から学んだことをこれからの活動に活かす方法であると考えています。 桜の季節、森元さん(右)と夫(左)と。



