この度は、清水エスパルスのクラブ創設25周年企画『ファン・サポーターとともにつくる、清水エスパルス25周年記念誌』プロジェクトにご協力いただき、誠にありがとうございます。
本日、斉藤俊秀さんからメッセージが届きました!
斉藤俊秀さん
クラブ名が「エスパルス」に決まった時(1991年)、自分は高校3年生でした。
「エスパルス」というネーミングは自分の中にすーっと入った感じで、“もうこの名前しかない!”というくらいの印象を持っていました。
高校生ながら、地元にプロサッカークラブとしてエスパルスができることは、当時かなり意識していました。
日本サッカー界の“地殻変動”というか、それくらい自分にとっても強烈な出来事でした。
1991年7月、日本平スタジアム(現IAIスタジアム日本平)のこけら落としとして、「静岡県選抜」と「ブラジルセレソンマスターズ」が試合をしたことを記憶しています。
その時に自分は高校生ながら参加させてもらい、そうそうたるメンバーとプレーできたことは大きな経験でした。
こけら落としの試合のマッチデープログラム(1991年7月)
※表紙は三浦知良選手
静岡県選抜のメンバー一覧
1991年当時は、「エスパルス」というクラブ名が決まったくらいで、選手が揃っていなかったと聞いています。大榎克己さんがプロ契約第1号に決まっていたくらい。
自分が清水東高校3年生のときに、高校の練習に克己さんが参加されたのを覚えています。高校の練習に参加した後に、単身ブラジルへ行ってトレーニングしてくるっておっしゃっていました。
高校の練習に参加されたときにもいろいろと声をかけていただき、また、克己さんは当時所属していたヤマハ発動機サッカー部をやめて、エスパルスのために清水に帰ってきたということは知っていたので、“いつかこの先輩の助けになりたい”と強く思いました。
やはり、エスパルスの歴史において克己さんの存在は大きいです。
エスパルスがプロサッカークラブとして多くの方々に支えられて25年を迎えることができました。これまでの過程、足跡を未来へつなげることは大切なことです。
クラブだけでなく、ファン・サポーターの皆さんと一緒に、この地域の皆さんと一緒にエスパルスの25周年記念誌を作り上げたいですね。
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現役選手、OB選手も含めて、引き続き、ファン・サポーター、スポンサーなど、皆様の力を合わせて、一緒に『クラブ創設25周年記念誌プロジェクト』を実現しましょう!