2015/09/29 11:24
みなさん、こんにちは!
メンヒル探検隊の徳林です(違
先日、鳥取市河原の八上姫縁結びおもてなしウォークで神楽公演と八上姫役をしたのですが、その帰りに熊野神社遺跡に視察に寄りました。
古墳時代ごろの始まり!?
熊野神社遺跡は、江戸時代前期の古文書、「稲葉民談記(いなばみんだんき)」「因幡誌(いなばし)」に記載され、熊野薬師、熊野三山信仰の遺跡として知られてきましたが、古墳時代ごろの墳墓から始まると考えられています。
その後、和歌山県熊野大社から熊野信仰が取り入れられ、神社が祀られました。
江戸時代に栄え大正5年に廃絶
江戸時代に入ると、石仏も安置され参詣者も増加し、無病息災と学問や安産にも効き目のある神仏習合の信仰の場として栄えました。
熊野神社は、明治時代まで続きましたが、大正5年(1916)に口佐治神社(くちさじじんじゃ)に合祀(ごうし)され、廃絶しました。
17体の表情豊かな羅漢像
入口付近から奥の院まで沿道にたたずむ17体※の石仏は、豊かな表情をたたえており、当時の人々が信仰の対象としていた面影をしのぶことができます。(※現在確認されている石仏の数)
小鳥居
入り口から170mのところに小鳥居があります。
すぐそばに修行小屋の跡があり、ここで断食などの修行をしてこの鳥居をくぐったようです。
小鳥居を潜ると学問、安産に効力があると伝わっています。
熊野神社では、イザナギ、イザナミの両神が祀られていました。
左手には、南北朝時代の供養塔が造立されています。
霊力を得ること、病気や災難から救済を受けることをお祈りされました。
六人仏は、横穴式石室状の石材を石がんとして祀られ、5体1組、2段で構築されているものと、石室石がん内に祀られたものがあります。
この石材はひとつが数十トンあり、いつ頃作られたものなのかはわかっていません。
2000年以上前の超古代遺跡だという説もあります。
羅漢像は後から設置されたものです。
羅漢は聖者の意味で、この世に永久に生存して末世において滅びる仏教を再び興すことを託された仏です。
ユーモラスな表情が人々に愛されました。
熊野神社遺跡で現在発見されている17体の羅漢像は、それぞれ表情が違っています。
ここは平地ではなく険しい山の中腹です。
こんな場所にこのような巨石を設置するのは、どうやって行ったのか想像もつきません。
四人仏は、切り立った岸壁の窪みに祀られ、その上には、阿弥陀仏の顔面を思わせる巨石が位置しています。
ここから先にも那智の滝など、さまざまなものがあるのですが道が無くなっていて進めませんでした。
動画でご覧下さい!
詳しくは下記のレポートページで!
⇒熊野神社紹介ページ
鳥取荒神神楽研究会は、地域の神話伝承や史跡を紹介する活動も行っています。
みなさん、どうぞよろしくお願いします!