ゲルニカ事件――どちらがほんとうの教育か
さまざまなメディアが誕生し、あふれるばかりの情報の洪水ですが、しかしその核心たる日本人の精神は、いよいよ衰弱しているのは原田さんのご指摘の通りだと思います。情報の洪水とはすなわち言葉の洪水であり、言葉は一見あふれるばかりの豊穣さに満たされているように見えますが、しかし現代の言葉とはすぐに売れる言葉、すぐに伝播していく安っぽい言葉、なにか下半身だけをのぞこうとする刺激的で低俗な言葉があふれているのであって、それは言葉が成熟していくこととはまったく無縁なことです。ということは情報の洪水とは、荒廃の海をつくりだしていくということなのでしょう。
さて、原田さんにこのような長文のお手紙を差し上げる情熱にとらわれた主題ですが、しかしこの重く深い主題はこれから原田さんと二信三信のお手紙の交流のなかで、長い時間をかけて熟成していかねばならぬものだと考えますので、まずはその導入だけにとどめておきます。私は小さな塾を主宰して子供たちと生きております。そのこともあって「ひとりから」誌の第四号の特集にさまざまな啓示を受けるのでした。岡田さんや田淵さんが遭遇した出来事、小野さんの弁護活動や福田さんの子供の権利に対するまったく斬新な切り口。それぞれの報告に新鮮な驚きをうけましたが、しかしなんといっても私が深く思いをはせるのはゲルニカ事件でした(私ははじめてこのような事件があったことを知りました)。
小学六年生の卒業式でのあの一瞬、まさにゲルニカの絵そのもののような叫びは、はげしいいじめにあっていた彼女の魂の苦悩からきたものでした。そしてその一瞬は一瞬だけでは終りませんでした。彼女の町に右翼の街宣車がやってきて罵声をとばし、一家は村八分状態にされ、中学に進級するとそこでも陰湿ないじめにあう。その事件からすでに長い月日がたっているのに、彼女はいまだにその影を濃厚にひきずっているのです。彼女はあの瞬間、その胸に緋文字Aを縫いつけてしまったのです。
彼女の胸に縫いつけられた緋文字、それは苦悩と罪の徽。愚かな大人たちが刻印した大人たちの罪の象徴であり、日本の教育が強い覚悟で背負っていかねばならぬ日本の苦悩の象徴でもあります。なぜ一人の若者だけがこのような重い苦悩と罪を背負って生きなければならないのでしょうか。この若者の苦悩に出会った私たちは何をすべきなのでしょうか。原田さんが社会に送り出した労作「ゲルニカ事件――どちらがほんとうの教育か」はなぜ休刊なのでしょうか。なぜ日本の先生たちは教育の原点ともなるこの書を永遠のテキストとしないのでしょうか。ゲルニカ事件には日本の教育が必ずつきあたる根源的な問題がたっぷりと縫い込められているというのに。いまこそ私たちはゲルニカ事件を読まなければならないのです。
例えば、高校中退者の数は毎年十万人をこえ、それは一度に百の学校が地上から消え去ることに等しいのです。学校にいかない子供たちもまるでプームのように増えつづけています。そして学級崩壊です。これらの間題を根源的にさかのぼっていくとゲルニカ事件が鋭く提示した間題につきあたるのです。しかし教育の中枢にいる人々は決してこの問題に取り組まないでしょう。大多数の教師たちもまたこの問題を避けてしまうでしょう。それは日本の教育が体質的にこの間題を欠落させているからです。日本の教育とは集団を向上させることをその本質にしています。言い換えれば、日本の教育とはひたすら集団に個を埋没させることにあるのです。この体質を濃厚にもつ土壌のなかで、ゲルニカ事件があらゆる領域で敗退していくのはある意味では当然のことなのでしょう。そうであるならば、それだからこそ、私たちはゲルニカ事件の問題をくり返しくり返し社会のなかに投げこんでいかねばならぬと思うのです。
教育の本質とは集団を形成していくことではなく、個を創造し確立していくことにあるのだと。金住さんのいわれる自己決定権をつくりだすことのできる精神や魂をつくりだしていくことにこそ教育の本質があるのだと。そのことにしかと気づいた一人一人がそれぞれの領域でそれぞれのやり方で、地下水脈となって地中に深くしみこむまで、あきらめることなくその活動をつづけていくべきなのです。やがてその地下水脈は怒涛のように地上に吹き出してくる日は必ずやってくるはずです。
さて、私たちはどうすべきなのか。何をしたらいいのか。ここから新しい展開に入っていきますが、それには沢山の言葉が必要になりますので、最初のお便りはこのあたりでとどめます。原田さんとこのような深い交流ができることを大変幸福に思います。なにか深く大きなそして刺激的な果実がたわわに実っていくような予感がするのです。