アン・リンドバーグが見えてくる 須賀敦子がこの地上から去ってからすでに二十年近い月日が流れてしまったが、須賀さんと結ばれている精神の紐帯というものを私はいよいよ強く感じるのだ。私が須賀敦子という存在を知ったのは、ある雑誌に連載されていたアン・リンドバーグについて書かれたエッセイに目を投じたときだった。アンは夫のリチャード・リンドバーグと極東に向かって飛び立つ。しかしシリウスと名付けた単発機は千島列島で不時着するのだ。そのときの様子を描いたアンのエッセイに、須賀さんは心奪われ、いつか自分もこのような文章を書ける人になりたいと思うのだ。日本はアメリカと大戦争を勃発させた。須賀さん、中学生のときのことである。 それから数十年後に、再びアン・リンドバーグと対峙することになる。そのあたりをちょっと長めに、須賀さんのエッセイから転載してみる。これは山崎範子の本質に向かっていく行程でもある。《さらに時間が経って、まったく関係のない調べものをしていたときに、アンの最初の著書の表題が、『北から東洋へ』"From North to Orient"だということを知った。これこそ、かつて私を夢中にさせたあの千島での不時着陸のときの文章がのっている本に違いないとは思ったけれど、それも手に入れる方法をもたないまま、また月日が流れて、私は大学を卒業し、フランス留学から帰って、放送局に勤務していた。ある日、友人がきっときみの気に入るよ、と貸してくれた本の著者の名が、ながいこと記憶にしみこんでいたアン・モロウ・リンドバーグだった。この人についてならいっぱい知っている。『海からの贈物」というその本は、現在も文庫本で手軽に読むことができるから、私の記憶の中のほとんどまぼろしのようなエッセイの話よりは、ずっと現実味がある。手にとったとき、吉田健一訳と知って、私はちょっと意外な気がしたが、尊敬する書き手があとがきでアンの著作を賞讃していて、私はうれしかった。もしかしたら、戦争中に読んだあの文章も、おなじ訳者の手になったのではなかったかという思いがあったが、そのころの私はそういうことをきちんと調べる習慣をもっていなかった。一九五五年に出版された『海からの贈物』は、著者が夏をすごした海辺で出会ったいろいろな貝がらをテーマに七つの章を立てて、人生、とくに女にとって人生はどういうものかについて綴ったもので、小さいけれどアンの行きとどいた奥行のある思索が各章にみち美しい本である。たとえば、つぎのような箇所を読むと、ずっと昔、幼い日に私を感動させたあの文章の重みが、もういちど、ずっしりと心にひびいてくる。「今日、アメリカに住んでいる私たちには他のどこの国にいる人たちにも増して、簡易な生活と複雑な生活のいずれかを選ぶ贅沢が許されているのだということを幾分、皮肉な気持になって思い返す。そして私たちの中の大部分は、簡易な生活を選ぶことができるのにその反対の、複雑な生活を選ぶのである。戦争とか、収容所とか、戦後の耐乏生活とかいうものは、人間にいや応なしに簡易な生き方をすることを強いて、修道僧や尼さんは自分からそういう生き方を選ぶ。しかし、私のように、偶然に何日間か、そういう簡易な生活をすることになると、同時に、それが私たちをどんなに落着いた気分にさるものかということも発見する」「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。女はチャールズ・モーガンが言う、『同転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なければならない」(新潮文庫) 半世紀まえにひとりの女の子が夢中になったアン・モロウ・リンドバーグという作家の、ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念は、この引用を通して読者に伝わるであろう。何冊かの本をとおして、アンは、女が、感情の面だけによりかかるのではなく、女らしい知性の世界を開拓することができることを、しかも重かったり大きすぎたりする言葉を使わないで書けることを私に教えてくれた。徒党を組まない思考への意志が、どのページにもひたひたとみなぎっている。》撃墜されたサンテグジュペリも見えてくる そして、雑誌連載の次の号に、須賀敦子の存在が私のなかに決定的な痕跡を残すエッセイを載せるのだ。サンテグジュペリのことが書かれていたのだ。ここでもちょっと長めの転載をしてみるのは、これもまた山崎範子の精神の投映していくものだから。《最初は、『星の王子さま』はなんだか子どもの本みたいなものを、と不満だったのが、読みすすむうちに、きらめく星と砂漠の時空にひろがる広大なサンテグジュペリの世界に私たちは迷いこみ、すこしずつ、深みにはまっていった。いや、迷っていたのは、クラスで私ひとりだったかもしれない。それまでに読んだどんな話よりも透明な空想にいろどられていながら、人間への深い思いによって地球にしっかりとつなぎとめられたサンテグジュペリの作品は、他にも読むべき古典がたくさんあるのをながいこと私に忘れさせるほど、夢と魅惑に満ちていた。 飛行家のアン・リンドバーグが書いたものに揺りうごかされ、いつか自分もこんなものを書けたらと思ったのは、十二、三歳のころだったけれど、それからまた六、七年たって、ふたたび私の心をつよく捉えたこの作家が、これまた飛行家というのは、それにしてもどういう偶然だったのか。 ジグザグのように歩いてきたながい人生の道で、あのとき信州にもっていったサンテグジュペリの本のうち、『戦う操縦士』だけが、どんなめぐりあわせだろう、傍線・付箋だらけになってはいるが、まだ私の手元にある。黄ばんだ紙切れがはさまった一二七ページには、あのときの友人たちに捧げたいようなサンテックスの文章に、青えんぴつの鈎カツコがついている。「人間は絆の塊りだ。人間には絆ばかりが重要なのだ」 もうひとつ、やはりこの本で読んだ、私にとって忘れることのできない文章がある。人生のいくつかの場面で、途方に暮れて立ちつくしたとき、それは、私を支えつづけてくれた。いや、もうすこしごまかしてもいいようなときに、あの文章のために、他人には余計と見えた苦労をしたこともあったかもしれない。若いひとたちにはすこし古びてみえるかもしれないけれど、堀口大学の訳文をそのまま、引用してみる。「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである」》 そしてこのエッセイはこう結ばれていく。《サンテグジュペリが、ドイツ軍に占領されたフランスの解放をねがって、北アフリカで軍事行動に参加中、一九四四年、偵察飛行に出たまま行方不明になったという話が私の意識を刺しつづけた。自分は中学生だったとはいえ、戦争中なにも考えることなく罩事政権のいうなりになっていたことが口惜しく、彼のような生き方への憧憬は年齢とともに私のなかでつよくなった。行動をともなわない文学は、というような口はばったい批判、理論ともいえないような理論を友人たちと論じてすごした時間を、いまはとりかえしたい気持だし、自分は、行動だけに振れたり、文学にとじこもろうとしたり、究極の均衡(そんなものがあるとすれば、だが)に到るのはいつも困難だった。自分にとっては人間とその運命にこだわりつづけることが、文学にも行動にも安全な中心をもたらすひとつの手段であるらしいと理解するまで、ずいぶん道が長かった。『戦う操縦士』とともにもう一冊、おそらくはフランスに留学する直前に買った、ガリマール書店版の『城砦』が本棚にある。ページも、そのあいだに入れた手製の栞も、茶色に古びているけれど、あるページには濃いえんぴつで、下線がひいてあった。「きみは人生に意義をもとめているが、人生の意義とは自分自身になることだ」 さらに、表紙の裏にはさんであった封筒には、だれかフランス人が書いたと思われる授業料のメモらしい数字と名前の下に、あのころの私の角ばった大きな字体で、サンテグジュペリからの言葉が記されていた。「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」》アン・リンドバーグを描いたエッセイ「葦の中からの声」と、このサンテグジュペリを描いたエッセイ「星と地球のあいだ」を読んだ私は、須賀敦子に挑戦の矢の矢を放つのだ。
芸術家と共存する街づくり塩谷陽子著「ニューヨーク──芸術家と共存する街」はもう十年も前に出版された本だが、ここに書かれていることは少しも古くなく、むしろこの本で指摘されていることはいよいよ日本と日本人は切実な問題として迫ってくる。日本の芸術は健在のように見える。あらゆる領域の芸術世界にスターが生まれ、さかんに興隆しているように見える。しかしそれはある一部のある特殊な例に過ぎない。その作品が売れてそれだけで食べていける芸術家は、それこそほんの一握りであって、大多数の芸術家は彼の作り出す作品だけでは食べていけない。大多数といったが、例えば、この日本には本物の画家はどのくらい存在しているのだろうか。少なく見積もっても一千、いや、そんな数ではなく、隠れキリシタンならぬ正体を隠した画家は数万人にのぼるかもしれない。私のいう本物の画家とは、絵を描くことで人生を貫こうと決意している人のことである。彼らはたとえその生涯に一枚の絵が売れなくとも画家であることをやめないだろう。彼らは神の声を聞いたのである。あなたはこの仕事を生涯をかけてやり抜きなさいと。それがあなたの天職なのだと(英語で天職をcallingという)。そういう本物の画家が、おそらくこの日本には確実に数十万人存在しているのだ。数十万という数は少しも驚く数ではない。人間はパンだけでは生きていけない。魂のパンもまた同様に食べていかねばならない。芸術家とはこの魂のパンを作る人たちのことである。一億二千万人の胃袋に食を提供する人々が、この日本には数百万人必要なように、一億二千万人の魂に作品を提供する芸術家は数百万人必要なのだ。農業者が数百万人存在するように、画家が数百万人存在しても少しも不思議ではない。芸術家を育てる街にさまざまな領域の芸術がある。音楽、映画、文学、演劇、ダンス、絵画、彫刻と。それぞれの領域でスターが生まれる。彼らの作品は売れ、その公演活動はいつも満席になり、何度もマスコミに登場して世の脚光を浴びる。しかしそんな彼らの背後に、何万何十万という本物の芸術家が存在しているということに、私たちの社会はもう気づくべきなのだ。彼らの作品は売れない。懸命に創造を続けるが、しかし一作も売れずにその生涯を終えるだろう。大半の芸術家がそうである。私たちの社会は、そんな彼らをけっして芸術家などとはいわない。彼らは人生の落伍者であり、敗北者なのだ。売れない芸術などに人生を浪費した屑であり、人間失格者なのだ。屑になりたくなかったら、さっさと撤退して、真面目なまともな社会人になれということになる。塩谷氏はこのことを鋭く提起しているのだ。どんな時代にも、どんな社会にも、芸術家は生まれる。芸術を天職とせよと天の声を聞いた芸術家が、今日もまたあちこちで誕生する。この日本には本物の芸術家は、数十万人、いや、ひょっとすると数百万人の数にのぼるかもしれない。社会はそんな彼らの存在を認め、芸術家として生きる権利を彼らに与えよということなのだ。これはどういうことなのか。塩谷氏は説明の導入としてエイズ患者のことを例に出しているが、社会が芸術家を向ける視線とエイズ患者に向ける視線が相似するからなのだろう。例えば、あなたの息子が高校を卒業すると、これからプロのバレーダンサーを目指して生きていくと決意表明したら、あなたの家庭は混乱するだろう。あなたの娘は美大を卒業して、画家になろうと毎日だらだらと、さっぱりわけのわからない絵を描いている。女の子だから、それはあなたの許容範囲だが、ある日その娘が、売れない彫刻家と結婚すると宣言したら、あなたの家庭は大混乱に陥るだろう。見識のあるあなたにしてからそうなのだから、日本の社会が芸術家に向ける視線は、さらに険しく、彼らが近辺に存在することさえ嫌悪するのだ。売れない芸術に人生を浪費している彼らは、人間の屑であり、人間失格者なのだ。こういう社会に「芸術家は、現代社会の中で、芸術家として生きる権利がある。だからその権利を守ってやる必要がある」という思想が、さらには「芸術は、教育や福祉とまったく同じに、コミュニティーが責任をもって扱う課題だとみなすべきものである」という思想を植え込んでいくにはどうしたらいいのか。建物ではなく人間に投資するこの新しい思想を打ち立てるために、ニューヨークの人と街で展開されているさまざまな活動がこの本で紹介されている。それらの活動を私の住む品川の街に引き寄せてみるとき、例えばこういうプロジェクトが組み立てられる。いま学校の教室がたくさん余っていて、廃校になる学校さえあるが、それらの空き教室や廃校になった学校を、芸術家たちに低料金で貸し出し、アトリエや練習場として使ってもらうといった取り組みである。あるいは廃業になった工場や倉庫や店舗がいたるところにあるが、それらの建物を行政が借りて、芸術家たちのアトリエとして提供していくといった取り組みである。町や村がその地域に文化を起こそうと、巨額の資金を投じて音楽ホールを建てたり、美術館を建てたりする。しかし文化とは建物が起こすのではない。建物にいくら巨額の資金を投じたって、文化など起こるわけがない。文化とは人間が起こすものであり、その地域に文化を起こしたかったら、文化を起こす人間に投資すべきなのだ。品川区にもたくさんの文化施設がある。すでに一千人を収容できるホールが大井町に、五百人を収容できるホールが荏原町に立っている。いまこの二つのホールは、たんなる貸しホールとして存在しているが、これからの時代、それぞれのホール専属の楽団や劇団やバレー団を養成していくべきなのだ。品川にはオーケストラだって、バレー団だって、劇団だって数多く存在している。彼らの公演活動を援護していく新しい思想に立った文化政策である。
生命の樹となって成長していく絵画 二〇〇八年の九月から十月にかけて葉山の海岸に立つ神奈川県立近代美術館で秋野不矩(ふく)展が組まれた。その展覧会に足を運んだ私は、展示室に入りその最初に展示された絵に釘づけになった。こういう体験はひさしぶりだ。こういう出会いをしたくてさまざまな展覧会に足を運ぶが、たいていは空振りで、なにか徒労の時間を費やしたといった思いになるのだが、しかしその「朝露」と題された日本画は私を釘づけにした。その母の像は背中だけ、横顔さえ見せていない一時期、明治という新しい時代に、岡倉天心たちが起こした芸術運動を小説にしようと、天心のもとに集まってきた画家たち、横山大観や菱田春草や下村観山などの絵をずいぶん熱心に見て回ったことがある。しかし次第に彼らの絵のフラットさ──画面を平面的に造形していく手法に、物足りなさを感じるようになっていった。画面が大きくなればなるほど、空間処理の部分がより広くなり、その主題とする平面的な絵は、いよいよ空疎といわないまでもフラットになる。油絵は絵の具を重層的に塗りあげていく。遠近法を駆使して、光と影の陰影を深くして立体的に造形していく。そんな油彩画のもつ重量感や存在感に比べるとき、平面的に画面を造形していく日本画はどうもフラットに映るのだ。その「朝露」もまた対象を平面でとらえる典型的な日本画だった。朝顔の蔦が花をつけて竹格子を這っている。その朝顔を背景にして、下駄を履いた和服姿の若い母親が、幼児を抱いて立っている。縦二メート七十センチ、横一メートル六十センチの画面である。しかしこの絵はフラットではない。画面は気品をたたえ、豊かさにあふれ、濃密な存在感がある。母子像をヨーロッパの画家たちもたくさん描いていくつもの名画があるが、この「朝露」はそれら油彩で描かれた歴史的名画に少しも劣らないばかりの感動を観る者に与える。母親が抱いている幼児は、母親の肩越しにこちらを向いている。その母親の像は背中だけ。彼女は横顔させ見せていない。画面に描かれているのは、黒に近い濃紺の和服に、ネイブルスイエローというのか枯葉色の帯をきりりと締めた後姿なのだ。しかし見る者にこの女性のやさしさや、強さや、英知や、凛とした意志がみえてくる。画家は子供を抱いた母親の背中を描くことによって、その女性の内部を描いているのだ。それはまた画家自身の内部を描きだすことだった。この絵が放つ、高さと、深さと、気品と、決然たる強い意志。白い画面に立ち向かう画家の高い志を描いている絵なのだ。カタログを見ると二十五歳の作とある。秋野はその若さですでに完璧と思えるばかりの日本画の技量を確立していたのだ。インドが創造力と想像力を爆発させたその初期の作品のあとに、がらりと変貌した子供や若者たちを描いた絵が並ぶ。同じ画家仲間と結婚して子供が次々生まれ、その子育てに奮闘していた時代の作品である。子どもたちは少年少女になり、やがて青年になっていく。彼らの成長する姿を描いたそれらの絵は、若くして確立したいわゆる風雅な日本画のスタイルを、なにやら完全に放擲してしまっているような絵だ。彼女の三十代、四十代、五十代、そして六十代の作品がほとんど展示されていないからただ推測するのみだが、だれよりも彼女は日本画のもつ限界に気づき、その限界を突き破ろうと血まみれの格闘をしていたのではないのだろうか。油彩画のもつ存在感と生命力を岩絵の具でいかに造形していくのか。少年たちを描いたそれらの絵にその苦闘の痕跡がとどめられているように見えるのだ。その部屋を抜けると展示会場は一気にインドを描いた世界に入っていく。彼女は五十五歳のときに、インドの大学に客員教授として招聘されるのだが、その一年間のインドでの生活が彼女の絵画を劇的に変貌させていく。それは変貌と呼ぶべきものではなく、大きな魂と破格の技量をもった彼女はインドと出会うことでとうとう解放された、あるいはインドという大地が彼女を救い出したということかもしれない。彼女の内部でくすぶり続けていた創造と想像のマグマが吹き上げ、圧倒的な黄色の世界を作り上げていったのだ。縦一メートル四十センチ、横三メートル六十センチの大画面である。黄濁した河面は黄金に染まり、その濁流のなかを家族であろうか、十二、三頭の水牛が大河を渡っている。水牛は角しか水面に出していない。画面を占めるのは圧倒的な大河の流れである。この大画面はフラットではない。存在感と生命力がみなぎっている。この絵はもはや日本画という範疇でとらえる絵ではない。これこそ秋野が目指してきた世界だった。若くして日本画のスタイルを確立し「朝露」や「姉妹」や「紅裳」のような傑作の森をつくりだした。しかしそのとき同時に誰よりも深刻に日本画の限界に直面したのであり、その限界を打ち破らんと苦闘してきた長い年月があった。「渡河」はその苦闘の果てに出現させた世界だった。力を秘めた絵画は見る者に対決を迫る。見る者の精神に衝撃をあたえ、魂までも揺さぶる。カタログをみると一九九八年作とある。なんと秋野八十六歳にして取り組んだ作品である。膨大な作品が火災で灰になってしまった秋野不矩の全貌を伝えんとするその回顧展に、画家がもっとも苦闘したであろう三十代、四十代、五十代、そして六十代の作品がほとんどない。いったいこの欠落は何を意味するのか。その疑問はカタログをみて腑に落ちた。二度も火災に会っているのだ。最初の火災に見舞われるのは六十三歳のときである。そのとき彼女の作品が一瞬にして灰になってしまったのだ。家や家財が焼け落ちたのはあきらめがつく。しかし彼女の生命そのものであった作品群がことごとく灰になってしまったことに、彼女はどれほどの衝撃をうけたであろうか。さらに六十六歳のときに二度目の火災にあって、ここでもまた作品が失われた。創造はつねに破壊することからはじまっていく。それまでの創造を打ち破らなければ新しい創造は生まれない。この火災は彼女にそういう決意をさせたのであろうか。これでさばさばした、ここから新しい出発だと。秋野はその火災こそ、彼女の画業を結実させていく新しいスタート地点に立ったと思わせるばかりだ。事実、葉山の美術館での一大回顧展は火災後の作品がしめることになる。この回顧展はまた次のことを私たちに気づかせる。彼女は若くして名声を確立していたのに、その絵がほとんど売れていない、彼女は本質的に売れない画家であったという事実に。「朝露」は二十代半ばに描いた傑作である。その時代に会場に展示されている「朝」「姉妹」「砂上」「紅裳」といった傑作の森を作り出している。それらの作品をいま私たちが見ることができるのは、その絵が売れていたからである。売却されて、売却された場所に展示されていたり所蔵されていたりした。だからその絵を私たちは見ることができる。しかし三十代から六十代までの作品はほんどと展示されていない。おそらく私たちを魅了するいくつもの大作や、珠玉のような小品の群れがあったに違いない。しかしそれらの絵はほとんど売れなかったのだ。売れない絵は自宅に所蔵しておく以外にない。二度の火災がそれら膨大な作品群をすべて灰にしてしまったのだ。なんという損出であろうか。彼女の絵と彼女の画家としての存在が、ようやく画壇という小さな世界から広く社会に認められていくようになるのは、八十歳を超えたあたりからである。そして九十歳のとき文化勲章を受ける。彼女は一躍時の人となりマスコミの脚光をあびていく。そのときから彼女の絵は飛ぶように売れていったのだろうか。インドの大地を描いた大作群が破格の値で売られて、それらの絵がさまざまな場所で展示されたり所蔵されたりするようになったのだろうか。いまカタログを見るとき、展示会場に展示された作品群の所蔵先は、そのほとんどが浜松市秋野不矩美術館蔵とある。ということはその大作群もほとんど売れていなかったことを語っていることである。彼女もまた売れない画家の一人だった。生命の木となって成長していく絵画秋野の六十代までの作品は二度の火災でことごとく焼失してしまった。二度あることは三度あるものだが、スプリングラーなどが完備した彼女の美術館が誕生することによってその心配もなくなった。その作品は何重にも警護されて、展示室に展示されたり所蔵庫に保管されたりしている。これで残された彼女の絵はひとまず安全に次の時代に引き継がれていく。彼女の絵が見たくなれば、いつでもその辺境の地に立つ美術館を訪ねればいいのだ。しかしそれでいいのだろうか。彼女の絵はその小さな美術館にひっそりと閉じ込めておいていいのだろうか。大半の画家たちの作品は、作者があの世に去ると死蔵されるか忘却の底に捨てられる。それは時代をにぎわしたベストセラー作家の作品だってその例に漏れない。しかし秋野の絵はちがう。彼女の絵はぐんぐんと成長していくのではないのだろうか。木立が年輪を刻みこんで、その幹をいよいよ太くさせ、超然と何百年と生き続けるように。生命力をもった絵画は歴史とともに成長していくのだ。私はその会期中に二度ほど葉山の美術館に足を運んだが、入場者の大半が高齢者たちだった。なるほど九十三歳まで力みなぎる創造を続けた秋野の絵に高齢者たちは魂がふるえるほど感動する。しかしその感動は青年たちこそ体験すべきことではないのか。自分の信じた道をあきらめずに歩いて行けと。どんな苦難にもうろたえることなく自分の道を歩いて行けと。彼女の絵は大望を抱く青年たちを力強く励ますに違いない。子供たちだって彼女の絵の前に立つべきではないのか。絵を描くとはきれいに美しく描くことではない。絵を描くとは自分を表現することなのだ。白い紙の上に思いのままに自分を表現する。どんなに下手でもいい。そんなことは問題ではない。そこにしっかりと自分が表現されている絵こそ絵というものなのだ。彼女の絵は子供たちに絵を描かせる力を与えるはずだ。インドに行きたいという声が聞こえたすぐれた芸術がなぜ時代とともに生き、歴史とともに成長していくのか。それはその芸術の前に立つ人々の魂の波動や血液がその芸術の中に流れ込んでいくからなのだ。それは音楽を見ればよくわかる。バッハはなぜ現代に脈々と生きているのか。モーツアルトやベートゥヴェンがなぜ日々新しくなって私にたちのなかに流れ込んでくるのか。それは彼らの音楽が、常に新しい時代の新しい世代の演奏者によって新生の血液を流し込まれるからだ。演奏者たちだけではない。コンサートに足を運び、ラジオやCDでその演奏に聴くおびただしい人々の魂の律動がまたその音楽に流れ込んでいく。バッハやモーツァルトやバートゥエベンは常に新しい。永遠の生命をたたえて人類の歴史を生きていく。それは絵画だって同じことだ。セザンヌやゴッホの絵の前にいつの時代でも無数の人々が立ち、その人々の生命の律動や新生の血液がその絵に流れ込んでいく。秋野の絵はインドにいきたいと、ささやき、うめいていないだろうか。インドを描いたその大作群をインドの人々に見てもらいたいと。彼女の画家としての魂はインドと出会うことで解放された。インドが彼女を救い出したのである。彼女の絵がインドに渡りたいと迫るのは当然のことだった。そのささやき、そのうめき声をたしかに聞きとった秋野不矩美術館のスタッフは、その声を実現すべく奮闘すべきなのだ。美術館の運営を担うスタッフの仕事は、所蔵する絵を管理し保管し展示するだけではないのだ。所蔵庫に絵を眠らせることは死蔵することにつながる。それは作品の生命の呼吸を止めてしまうこと。秋野の絵はぐんぐんと成長を続けている、そしてインドに渡りたいと叫んでいるのだ。ならば美術館のスタッフは、インドの主要都市、ニューデリーの、カルカッタの、カラチの美術館を巡回する展覧会に取り組むべきなのだ。インド各地の都市を巡回した彼女の絵は、インドの人々を虜にするだろう。するとその成功は世界から注目を浴び、競って彼女の絵が世界各地の美術館から招聘されるだろう。パリで、ロンドンで、ベルリンで、上海で、そしてニューヨークで彼女の大規模な回顧展が開かれる。彼女の絵は日本画という領域を打ち破った絵画だった。彼女の絵は国境を越えて成長していく木立である。秋野不矩は世界の人々に愛される《FUKU AKINO》となる日がやがてやってくる。「渡河」が百七十億円で売却されたさらにこういう現象もおこっていく。世界各地の美術館から秋野不矩の絵を譲ってくれないだろうかと打診される。その話を具体化させる使者たちもやってくる。それらの動きを察知した画廊主たちも暗躍しはじめ、やがて秋野の絵はニューヨークやロンドンのオークションにかけられ、高額な値がつけられて売られていく。新しいポリシーをもつ秋野不矩美術館長は、とうとう彼女の最高傑作である「渡河」もオークションに出してしまった。その絵にいったいどのくらいの値がつけられるのだろうか。二〇〇六年にジャクソン・ポラックの「NO5」が百七十億円という値で売却された。「渡河」もまたそのくらいの値がつくだろう。なにしろ世界の《FUKU AKINO》である。そんな値がついてもおかしくない。かくて「渡河」は売却されて海を渡ってしまった。こういう決断をした館長に、猛烈な批判が巻き起こるにちがいない。秋野不矩美術館は商売を始めた。秋野の最高傑作を売り払ってしまった。秋野芸術を冒瀆する行為である。天上にいる秋野は嘆き悲しんでいると。しかしそうだろうか。むしろ秋野は会心の笑みを浮かべているのではないのだろうか。最後には勝つと生きてきた彼女の作品群が、かくも高額な値で売られ、世界に広がっていくなど想像することさえできなかったが、しかしこれでようやく自分のしたかった次なる事業に取り組めると。館長はこの秋野の声を聞きとっていたのだ。手にした百七十億円でなにをはじめるのか。芸術家たちを援護するための秋野不矩財団をつくるのである。売れない画家たちに奨学金を出したり、作品を買い上げたり、彼らの作品を世に送り出すシステムをつくったりと、苦闘する彼らを援護する財団である。百五十億円もの資金があれば、千人の若い画家たちを援護できるだろう。秋野は教育者でもあった。若い画家たちを育ててきた半生でもあった。芸術家は次の時代の芸術家たちを援護していかねばならない。もし自分の絵が高額で売却されたら、その金は若い画家たちを援護する資金にすべきなのだということを覚知していたはずである。館長は彼女のそんな声をたしかに聞きとったから、断固として「渡河」を百七十億円で売却したのだった。
本物と偽物 山岡洋一 吉田健一訳『海からの贈物』は文句なしの名訳である。この吉田訳の『海からの贈物』を読むと、知識人のなかでもっとも上質な人たちがどれほどの力をもっていたのかを実感できる。 同じ原著からもうひとつ、落合恵子訳『海からの贈りもの』 (立原書房) が1994年に出版されている。吉田健一訳は初版が1967年だから、30年近くのちに新訳がでたわけだ。落合訳をみていくと、吉田訳の素晴らしさが実感できると思える。『海からの贈物』の冒頭の訳文を読むだけで、落合訳の特徴がはっきりと分かるのだが、極端にいうなら、吉田健一訳を書き写して、いくつかの変更を加えているだけだとすらいえる。もちろん、既訳があるものの新訳をだすときに、既訳を参照するのは、訳者にとって当然の責務だともいえる。既訳の良い部分を採り入れ、問題がある部分を修正して、既訳よりも良い訳にすることが責務だともいえるのだ。だから、落合訳が吉田訳とそっくりだからといって、とくに非難されるべきではない。 おそらく、落合恵子は吉田訳を書き写すつもりで新訳をはじめたわけではないのだろう。吉田訳とそっくりでは、盗作ではないかと疑われかねないからだ。だが、たとえば、too softを訳そうとすると、「い心地がよ過ぎる」以外の訳文がありうるとは思えなかったはずだ。any real mental disciplineも「ほんとうに頭を働かせたり」以外の訳し方があるとは思えなかったはずだ。吉田訳を参照せず、原文を読んで、辞書を引き、脳の襞の奥深くに収められている語彙を懸命に探るだけの方法で訳せば、こういう訳文になるはずがないことには、気づきもしなかった。吉田訳はそれほど原文に忠実で、それほど日本語として自然な訳なのだ。 もちろん、吉田訳をそのまま引き写すわけにはいかないから、いくつかの点を変更するしかない。ほんとうにすぐれた書き手なら、吉田訳を参考にして、それをさらに超える名訳を作りだせただろう。だが、落合恵子にはそこまでの力がない。いくつかの点で、逆に悪い方向に変更してしまっている。 次の例はもう少し複雑だ。落合訳を読んだとき、なんとも分かりにくい文章だという印象を受けた。よくみると、吉田訳を書き写しただけと思えるほどそっくりなのに、印象が違う。吉田訳は明快で、明晰で、明瞭な名文という印象なのに、落合訳は分かりにくく読みにくいという印象なのだ。なぜ、そのような印象を受けるのかを説明していこう。 第1章は4つの短い段落にわかれている。これを文章の構成という観点からみてみると、日本人にはきわめて馴染みの深く、分かりやすいものになっている。吉田訳の各段落の最初の文と第4段落の最後の文をみていくと、構成が簡単に分かる。 第1段落──浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。第2段落──初めのうちは、自分の疲れた体が凡〔すべ〕てで、‥‥何もする気が起こらない。 第3段落──そして二週間目の或〔あ〕る朝、頭が漸〔ようや〕く目覚めて、また働き始める。 第4段落──しかしそれをこっちから探そうとしてはならない‥‥我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。この構成が少なくとも日本人にとってきわめて分かりやすいのは、もちろん偶然にではあるが、日本語の文章構成でよく使われる「起承転結」に近いからである。起で起こし、承で説明し、転で転換し、結で結論を述べる。『海からの贈物』の第1章は、このように、偶然にではあるが起承転結に似た構成になっているので、吉田訳を一読すると、全体がじつによく理解できる。ところが、落合訳では、全体像がみえてこない。何を言おうとしているのかが分かりにくい。個々の言葉は幼稚ではあっても、とくに分かりにくいわけではないのに、全体としては分かりにくく読みにくい文章になっている。それはかなりの部分、原著のパラグラフをいくつもの段落に分割し、逆にパラグラフを超えて段落をつないでいて、起承転結に似た章の構造がみえなくなっているためだ。 第1章はわずか37行だが、これを12の段落に切り刻んだ。平均3行、長いものでも5行しかない。吉田訳は29行、4段落であり、各段落は6行から8行の長さになっている。落合恵子はたぶん、こう考えたのだろう (あるいは、編集者がそう考えたのかも知れない) 。吉田訳との違いをただしたい。たぶん、吉田訳は文が長いし、段落も長い。文を切り、段落を細かくわける方法を採ったらどうだろう。いまの読者は昔の読者と違って、段落が短く、文が短いのを好むから‥‥。その結果、なんとも分かりにくい訳文ができた。気の毒なことだ。だれにとって。もちろん読者にとって。 それにしてもなぜ、段落が短い方がいいと考えるのだろうか。おそらく、読者は馬鹿だという思い込みがあるのだ。長い文章は歯が立たない、長い段落には耐えられない、むずかしい言葉があればもう読めない、そういう馬鹿だという思い込みがあるのだ。馬鹿による馬鹿のための馬鹿な本しか売れないという思い込みがある。こういう恐ろしいまでの傲慢さが、出版業界の一部にはびこっている。たぶん、落合訳で段落を切り刻んだのは、そうした一部の風潮から影響を受けたからだろう。 念のために付け加えておくが、落合恵子訳が世の中の翻訳書と比較して、とくに悪いというわけではない。それどころか、名訳だと推奨する人が少なくないほどであり、全体として質の高い訳であることはたしかだ。だが、落合訳がすぐれているのは、吉田訳にかなりの程度まで忠実に従ったからだ。 落合訳をあえて取り上げたのは、吉田健一の訳がいかに素晴らしいかを逆の方向から示しているからである。吉田訳は、新訳を試みてもかなりの程度まで忠実に従うほかないほどの名訳なのだ。ほかの訳文や訳語が考えられなくなるほど原文に密着していて、しかも自然な日本語になっている。翻訳が明快で、明晰で、明瞭な名文になりうることを示す名訳である。
ゲルニカ事件――どちらがほんとうの教育か さまざまなメディアが誕生し、あふれるばかりの情報の洪水ですが、しかしその核心たる日本人の精神は、いよいよ衰弱しているのは原田さんのご指摘の通りだと思います。情報の洪水とはすなわち言葉の洪水であり、言葉は一見あふれるばかりの豊穣さに満たされているように見えますが、しかし現代の言葉とはすぐに売れる言葉、すぐに伝播していく安っぽい言葉、なにか下半身だけをのぞこうとする刺激的で低俗な言葉があふれているのであって、それは言葉が成熟していくこととはまったく無縁なことです。ということは情報の洪水とは、荒廃の海をつくりだしていくということなのでしょう。 さて、原田さんにこのような長文のお手紙を差し上げる情熱にとらわれた主題ですが、しかしこの重く深い主題はこれから原田さんと二信三信のお手紙の交流のなかで、長い時間をかけて熟成していかねばならぬものだと考えますので、まずはその導入だけにとどめておきます。私は小さな塾を主宰して子供たちと生きております。そのこともあって「ひとりから」誌の第四号の特集にさまざまな啓示を受けるのでした。岡田さんや田淵さんが遭遇した出来事、小野さんの弁護活動や福田さんの子供の権利に対するまったく斬新な切り口。それぞれの報告に新鮮な驚きをうけましたが、しかしなんといっても私が深く思いをはせるのはゲルニカ事件でした(私ははじめてこのような事件があったことを知りました)。 小学六年生の卒業式でのあの一瞬、まさにゲルニカの絵そのもののような叫びは、はげしいいじめにあっていた彼女の魂の苦悩からきたものでした。そしてその一瞬は一瞬だけでは終りませんでした。彼女の町に右翼の街宣車がやってきて罵声をとばし、一家は村八分状態にされ、中学に進級するとそこでも陰湿ないじめにあう。その事件からすでに長い月日がたっているのに、彼女はいまだにその影を濃厚にひきずっているのです。彼女はあの瞬間、その胸に緋文字Aを縫いつけてしまったのです。 彼女の胸に縫いつけられた緋文字、それは苦悩と罪の徽。愚かな大人たちが刻印した大人たちの罪の象徴であり、日本の教育が強い覚悟で背負っていかねばならぬ日本の苦悩の象徴でもあります。なぜ一人の若者だけがこのような重い苦悩と罪を背負って生きなければならないのでしょうか。この若者の苦悩に出会った私たちは何をすべきなのでしょうか。原田さんが社会に送り出した労作「ゲルニカ事件――どちらがほんとうの教育か」はなぜ休刊なのでしょうか。なぜ日本の先生たちは教育の原点ともなるこの書を永遠のテキストとしないのでしょうか。ゲルニカ事件には日本の教育が必ずつきあたる根源的な問題がたっぷりと縫い込められているというのに。いまこそ私たちはゲルニカ事件を読まなければならないのです。 例えば、高校中退者の数は毎年十万人をこえ、それは一度に百の学校が地上から消え去ることに等しいのです。学校にいかない子供たちもまるでプームのように増えつづけています。そして学級崩壊です。これらの間題を根源的にさかのぼっていくとゲルニカ事件が鋭く提示した間題につきあたるのです。しかし教育の中枢にいる人々は決してこの問題に取り組まないでしょう。大多数の教師たちもまたこの問題を避けてしまうでしょう。それは日本の教育が体質的にこの間題を欠落させているからです。日本の教育とは集団を向上させることをその本質にしています。言い換えれば、日本の教育とはひたすら集団に個を埋没させることにあるのです。この体質を濃厚にもつ土壌のなかで、ゲルニカ事件があらゆる領域で敗退していくのはある意味では当然のことなのでしょう。そうであるならば、それだからこそ、私たちはゲルニカ事件の問題をくり返しくり返し社会のなかに投げこんでいかねばならぬと思うのです。 教育の本質とは集団を形成していくことではなく、個を創造し確立していくことにあるのだと。金住さんのいわれる自己決定権をつくりだすことのできる精神や魂をつくりだしていくことにこそ教育の本質があるのだと。そのことにしかと気づいた一人一人がそれぞれの領域でそれぞれのやり方で、地下水脈となって地中に深くしみこむまで、あきらめることなくその活動をつづけていくべきなのです。やがてその地下水脈は怒涛のように地上に吹き出してくる日は必ずやってくるはずです。 さて、私たちはどうすべきなのか。何をしたらいいのか。ここから新しい展開に入っていきますが、それには沢山の言葉が必要になりますので、最初のお便りはこのあたりでとどめます。原田さんとこのような深い交流ができることを大変幸福に思います。なにか深く大きなそして刺激的な果実がたわわに実っていくような予感がするのです。