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一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて大地に広がっていく。

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が放つ第三弾。時代に沈みかけた下町をよみがえらせた山崎範子の「谷根千ワンダーランド」と高尾五郎「クリスマスの贈り物」の登場。

現在の支援総額

140,800

140%

目標金額は100,000円

支援者数

61

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/13に募集を開始し、 61人の支援により 140,800円の資金を集め、 2021/07/15に募集を終了しました

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現在の支援総額

140,800

140%達成

終了

目標金額100,000

支援者数61

このプロジェクトは、2021/06/13に募集を開始し、 61人の支援により 140,800円の資金を集め、 2021/07/15に募集を終了しました

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が放つ第三弾。時代に沈みかけた下町をよみがえらせた山崎範子の「谷根千ワンダーランド」と高尾五郎「クリスマスの贈り物」の登場。

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芸術家と共存する街づくり

塩谷陽子著「ニューヨーク──芸術家と共存する街」はもう十年も前に出版された本だが、ここに書かれていることは少しも古くなく、むしろこの本で指摘されていることはいよいよ日本と日本人は切実な問題として迫ってくる。日本の芸術は健在のように見える。あらゆる領域の芸術世界にスターが生まれ、さかんに興隆しているように見える。しかしそれはある一部のある特殊な例に過ぎない。その作品が売れてそれだけで食べていける芸術家は、それこそほんの一握りであって、大多数の芸術家は彼の作り出す作品だけでは食べていけない。

大多数といったが、例えば、この日本には本物の画家はどのくらい存在しているのだろうか。少なく見積もっても一千、いや、そんな数ではなく、隠れキリシタンならぬ正体を隠した画家は数万人にのぼるかもしれない。私のいう本物の画家とは、絵を描くことで人生を貫こうと決意している人のことである。彼らはたとえその生涯に一枚の絵が売れなくとも画家であることをやめないだろう。彼らは神の声を聞いたのである。あなたはこの仕事を生涯をかけてやり抜きなさいと。それがあなたの天職なのだと(英語で天職をcallingという)。そういう本物の画家が、おそらくこの日本には確実に数十万人存在しているのだ。

数十万という数は少しも驚く数ではない。人間はパンだけでは生きていけない。魂のパンもまた同様に食べていかねばならない。芸術家とはこの魂のパンを作る人たちのことである。一億二千万人の胃袋に食を提供する人々が、この日本には数百万人必要なように、一億二千万人の魂に作品を提供する芸術家は数百万人必要なのだ。農業者が数百万人存在するように、画家が数百万人存在しても少しも不思議ではない。

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芸術家を育てる街に

さまざまな領域の芸術がある。音楽、映画、文学、演劇、ダンス、絵画、彫刻と。それぞれの領域でスターが生まれる。彼らの作品は売れ、その公演活動はいつも満席になり、何度もマスコミに登場して世の脚光を浴びる。しかしそんな彼らの背後に、何万何十万という本物の芸術家が存在しているということに、私たちの社会はもう気づくべきなのだ。

彼らの作品は売れない。懸命に創造を続けるが、しかし一作も売れずにその生涯を終えるだろう。大半の芸術家がそうである。私たちの社会は、そんな彼らをけっして芸術家などとはいわない。彼らは人生の落伍者であり、敗北者なのだ。売れない芸術などに人生を浪費した屑であり、人間失格者なのだ。屑になりたくなかったら、さっさと撤退して、真面目なまともな社会人になれということになる。

塩谷氏はこのことを鋭く提起しているのだ。どんな時代にも、どんな社会にも、芸術家は生まれる。芸術を天職とせよと天の声を聞いた芸術家が、今日もまたあちこちで誕生する。この日本には本物の芸術家は、数十万人、いや、ひょっとすると数百万人の数にのぼるかもしれない。社会はそんな彼らの存在を認め、芸術家として生きる権利を彼らに与えよということなのだ。これはどういうことなのか。塩谷氏は説明の導入としてエイズ患者のことを例に出しているが、社会が芸術家を向ける視線とエイズ患者に向ける視線が相似するからなのだろう。

例えば、あなたの息子が高校を卒業すると、これからプロのバレーダンサーを目指して生きていくと決意表明したら、あなたの家庭は混乱するだろう。あなたの娘は美大を卒業して、画家になろうと毎日だらだらと、さっぱりわけのわからない絵を描いている。女の子だから、それはあなたの許容範囲だが、ある日その娘が、売れない彫刻家と結婚すると宣言したら、あなたの家庭は大混乱に陥るだろう。見識のあるあなたにしてからそうなのだから、日本の社会が芸術家に向ける視線は、さらに険しく、彼らが近辺に存在することさえ嫌悪するのだ。売れない芸術に人生を浪費している彼らは、人間の屑であり、人間失格者なのだ。こういう社会に「芸術家は、現代社会の中で、芸術家として生きる権利がある。だからその権利を守ってやる必要がある」という思想が、さらには「芸術は、教育や福祉とまったく同じに、コミュニティーが責任をもって扱う課題だとみなすべきものである」という思想を植え込んでいくにはどうしたらいいのか。

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建物ではなく人間に投資する

この新しい思想を打ち立てるために、ニューヨークの人と街で展開されているさまざまな活動がこの本で紹介されている。それらの活動を私の住む品川の街に引き寄せてみるとき、例えばこういうプロジェクトが組み立てられる。いま学校の教室がたくさん余っていて、廃校になる学校さえあるが、それらの空き教室や廃校になった学校を、芸術家たちに低料金で貸し出し、アトリエや練習場として使ってもらうといった取り組みである。あるいは廃業になった工場や倉庫や店舗がいたるところにあるが、それらの建物を行政が借りて、芸術家たちのアトリエとして提供していくといった取り組みである。

町や村がその地域に文化を起こそうと、巨額の資金を投じて音楽ホールを建てたり、美術館を建てたりする。しかし文化とは建物が起こすのではない。建物にいくら巨額の資金を投じたって、文化など起こるわけがない。文化とは人間が起こすものであり、その地域に文化を起こしたかったら、文化を起こす人間に投資すべきなのだ。

品川区にもたくさんの文化施設がある。すでに一千人を収容できるホールが大井町に、五百人を収容できるホールが荏原町に立っている。いまこの二つのホールは、たんなる貸しホールとして存在しているが、これからの時代、それぞれのホール専属の楽団や劇団やバレー団を養成していくべきなのだ。品川にはオーケストラだって、バレー団だって、劇団だって数多く存在している。彼らの公演活動を援護していく新しい思想に立った文化政策である。


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