百部しか売れない本のほうが、百万部売れる本よりもはるかに力をもっている
世界を転覆させるという意志をその底にひめたこの作品と出会った加登屋さんは、ただならぬ決意と情熱でこの作品に立ち向かってくれた。四部作を一挙に刊行させ、大宣伝によって世に投じた。この四部作を読書社会の投じるということは、世界を転覆させんとする戦いだったのだ。しかし世界は転覆などしなかった。世界は何も変わらなかった。出版人としての読みは外れてしまった。その情熱が熱く激しかっただけに挫折感は深い。しかしこれは敗北だったのだろうか。これはむしろ世界を転覆させるための予兆ではないのだろうか。
例えば、英語にこういう表現がある。
If a book has never been in fashion, then it can never go out fashion.
時流に乗らなかった本は、時代に廃れることはない。流行に乗らなかった本は、流行の終焉とともに捨てられることはない。あるいはもっと強く訳するならば、すぐれた本は時流などに左右されずに永遠にその生命を保ち続けると。これは負け惜しみの言葉でもなければ、売れなかったことへの弁解の辞でもない。
そうではないか。いまの日本の読書社会でベストセラーになる本とは、なにやら腐った本ばかりではないか。だからベストセラーにするには、腐臭をあたりに放つようにたっぷりと腐らせることが必要なのだ。これらの本は賞味期限がきたらことごとく捨てられる。あとにはなにも残らない。ただ世界を汚しただけ。世界を転覆し、世界を変革していくのはベストセラーではない。四部作は最初の戦いで、世界を汚す本ではなく、世界を変革していく本だと選別されたのである。一昨日のエッセイでとりあけだ「星の王子さま」のサン・テグジュペリはこのことを、戦時の記録の第二巻でこう書き記している。
つまらぬ作品を六百万部売るくらいなら、顔を赤らめずにすむ作品を百部売ったほうがまだしもだ。これは納得のゆくエゴイズムだ。百部のほうが六百万部よりもはるかに力を持つだろうから。数への信仰はこの時代の悪ふざけの一つだ。もっとも光輝を放つ雑誌はもっとも読者数の限られた雑誌だし、『方法序説』が十七世紀を通じて二十五人の読者しか獲得しなかったとしても、やはりそれは世界を変えたにちがいない。『パリ・ソワール』紙は、年間の膨大な紙の使用量と、二百万の購読者をもってしても、いまだなに一つ変えたことはなかったのだ。(戦時の記録二「ある人質への手紙」山崎庸一郎訳 みすず書房)
英雄的出版人とは、六百万部を売る人のことではなく、世界を変革していく百部の本に取り組む人のことである。四部作は敗北した。しかしこの四部作は英雄的出版人に出会ったのだ。なにを恐れることがあろうか。四部作は三百年かけて三百億部を売るというプロジェクトのもとでスタートしたのだった。三百年かけて世界を変革していくという雄大な規模をもった大事業なのだ。その初戦に敗北したからといってなにを嘆く必要があろうか。この惨敗こそこの大事業をより強く育てる鉄床であったのだ。