その遠く隔てた距離のために、卒業してからたしか二年目か三年目に一度東京で会ったきりだった。しかし年賀状とか、あるいはちょっとした近況のやりとりは続けていたのだ。ところが三年前、ひどく謎めいた、なにかただならぬ手紙をよこしたあと、ぷつりと音信を断ってしまった。それは私とだけではなく、彼と親しくしていた共通の友人にたずねても同様な返事がかえってきたから、私たちの前から姿を消さなければならない、なにかただならぬ事件といったものが、彼の身の上に起こったのかもしれないと思ったりした。
実際、その手紙は謎めいていた。分校をつぶしたとか、子供を殺してしまったとか、一家を虐殺したとか、村をつぶしたとか、ぼくは裏切り者だとか、この罪を永遠に許さないといった言葉が書かれていたのだ。しかしそれ以上のことはなにも書かれていない。いったい村をつぶしたとはどういうことなのか、子供を殺したということはどういうことなのか、一家を虐殺したとはどういうことなのか、私は二度ならず三度まで手紙をしたためたのだが彼からの返事はなかった。
そんな彼のことがずいぶん気になっていて、幾度か彼の住む島を訪ねようとしたが、飛行機をつかっても最低一週間、もし海が荒れて船が欠航でもしようものなら二週間近くの休暇を覚悟しておかねばならない。そんな長い休暇をとるには一大決心を要することで、なかなかふんぎりがつかずにずるずると時を重ねていたのだ。
ところが今年の賀状の束のなかに、彼の賀状もまじっていた。それを手にしたとき、どんな事態に見舞われたのかわからぬが、彼は再び立ち上がったと思った。彼は挫折することや絶望することを禁じられた男だった。挫折や絶望のなかにではなく、理想のなかに倒れるためにこの世に放たれた男だったのだ。
彼の賀状ほどうれしいものはなかった。というのはその年が終わろうとする十二月の半ばに、四年という長かったのか短かったのかわからぬ結婚生活にピリオドを打って、私は離婚したのだ。私と彼女を引裂いた亀裂はもうずいぶん前から走っていて、そのピリオドはいわば私たちの解放であったのだが、離婚という現実にいざ直面してみると、やはり十分すぎるほど打ちのめされた。そんなときはるか遠方より思いがけない、しかし私が一番会いたかった男からの便りは、光のない洞を徘徊しているような私には、なにか一つの救いのような意味をもっていたのだ。
幸い私たちには子供がいなかった。仕事をもっている彼女が子供をつくることを始終拒否したのだが、今にして思うとはじめから彼女はこの日がくることを予感していたのではないかとも思えるのだった。そんな冷静な読み方をしていた彼女に新しい憎しみが湧くのだが、離婚とはこのどろどろとした感情の泥流があとからあとから押し寄せ、暗い淵へ暗い淵へと押し流していくことだった。どこまでも沈みこんでいく気持ちのバランスを取り戻そうと、男と女が一緒になることも別れることも、同じ次元の行為なのだと思おうとした。しかし離婚と結婚とはまるで別の次元のことだった。離婚とは切り崩していくことだった。なにもかも、ことごとく、ずたずたに切り崩していくことだった。
その日はぐずぐずと雨が降っていた。いつものように残業を終えてアパートに戻ってみると、部屋がすっからかんになっていた。彼女の持物がすべて運び出されていたのだ。私の生活が困らぬ程度のものは残していってくれたのだが、小さな部屋を占領していたタンスやら鏡台やら彼女の机やらを運び出されたあとは、ほとんど空っぽに等しかった。それは前から二人のあいだで了解ずみのことだったが、いざその光景を目の当りにしたとき、なにか私の内部がざっくりとえぐりとられたように思えた。その場にいたたまれなくなった私は外に飛び出し、雨のなかをあてどなく歩きつづけたが、私は人を愛することができない失格者であり、人生の脱落者なのだという声がどこまでも追いかけてきた。
私の会社は事務機器メーカーとしては日本で一、二を争う会社だった。給料だってボーナスだって悪くはなかったし、ずっと本社勤めでいわば陽の当たるポストを歩いていた。次第に大きな仕事を受持つようになり、そのことに情熱を燃やしていた。私はそんな生き方になんの疑問ももたなかった。ところが離婚したあたりから、なにかさっぱり仕事が面白くなくなっていった。ひどく醒めた目で、いったいこんなことをしてどうなるのだ、結局商品をばらまいて、金をせしめていくだけのことではないか、といった調子で自分の仕事を眺めるようになったのだ。いったんそんな眺め方をしてみると、次々に疑問が湧きおこっていくのだった。これでいいのだろうか。こんな人生でいいのだろうか、と。築き上げてきたものがどっと崩れていくなかで、最後の砦までも疑いだしていたのだ。
ちょうどその頃、友人の紹介で一人の男が私をたずねてきた。私の会社のオフイスは最新の事務機器がならび、モデルルームになるほど垢抜けていた。そんななかにあらわれたその男は、あまりの場違いさにちょっとおろおろしていた。浅黒い肌をしたその男は、どことなくみすぼらしかった。履いているズックの靴の小指のあたりが、すりきれていて中身が見えていた。男は小井丸だと名乗った。彼はインド中部のアーマドガナルという所から出てきたのだった。
私は彼にすぐに好意をもった。どこかでこういうタイプの人間と会ったことがあり、なにかひどくなつかしい思いにとらわれた。与え続ける人間のにおいなのだ。常に自分を与え続けるタイプの人間だということをその全身ににじませていた。だれなのだろうか、いったいどこで会ったのだろうかと、しばし思案をめぐらせたが、小井丸と別れたあと、それがだれなのかわかった。樫山だった。風貌はまるで違っていたが、そこから漂ってくる雰囲気がそっくりなのだ。小井丸はインドの奥地で学校づくりをしているのだった。
学校といっても寺小屋に毛の生えたようなものだった。しかしそのあたりのいくつもの部落から二百人近い子供たちが通ってくるというのだ。何枚もの写真をみせながらその学校について説明したあと、ちょっと言いにくそうに鉛筆を寄附してくれないだろうかと切り出した。私はどのぐらい必要なんですかとたずねたが、その数があまりにもひかえめだったので思わず苦笑してしまった。鉛筆が手に入ったとしても、ノートといったものはあるんですか、消しゴムだって、筆箱だって、色鉛筆だって、クレヨンだって、と私は日本の学校で使う文房具をあげていった。そのとき私はこの男のためにひと肌ぬいでやろうと決意していたのだ。私はなにかに憑かれたようにそのことに熱中した。部長や専務にまで働きかけ、私の管轄する支店や小売店などにも何度も足を運んで、二百キロ、ダンボール箱にして十個になるまでの学用品を集めて送りだしたのだ。
小井丸から驚きと感動をにじませた礼状が届き、それに追いかけるように、私が送った鉛筆やクレヨンでかいた子供たちの手紙や絵をつめこんだ小包が届いた。その子供たちの絵は、私に学生時代のある熱い体験をいやが上にも思いださせた。そしてそのなかに百人近い子供たちが、貧弱な木造の校舎を背にしておさまっている写真も同封されていたが、その写真をくり返し眺めているうちに、なにかそのなかに私の魂といったものが吸いこまれていくような気がした。彼に小包が無事に着いたことを感謝する手紙を書いたとき、そのことにふれ、自分もまたその地であなたと同じような情熱を燃やせたら幸福だろうなと書いたのだ。
しばらくしてまた彼から長文の手紙が届いた。レター・ぺーパーに小さな文字でぎっしりと書きこまれていたその手紙は、《日本人特有の婉曲な表現なのでしょうが、あなたの手紙をぼくは馬鹿だからまともに受けました。そしてあなたにこの地にお誘いする手紙を書くことにしました》という書き出しではじまっていた。そしてその地で格闘してきた彼の歴史といったことがめんめんと綴られ、いまなお困難な状況にあり個人の力ではどうすることもできない障害の山がいくつもあり、ぼくの小さな行為など乾いた砂漠に流しこむコップ一杯の水ほどの意味しかないという思いにとらわれ、幾度も絶望と無力感に襲われると書かれていた。
もしその手紙がただ甘い誘いの手紙、未来は薔薇色に包まれているとか、大きな可能性が一つ一つ実現されていくとかいった明るい言葉が書かれていたら、私の心はかくも大きく動きはしなかっただろう。小井丸の赤裸々な吐露が続き、ぼくの小さな行為など、砂漠のなかに流しこむカップ一杯の水にすぎないのではないかという無力感に襲われるというくだりを読んだとき、私はいま自身が落ちこんでいる無力感とか虚脱感は、なんと小さくけちくさいのだろうと思わずにいられなかった。そして自分もまた小井丸のような生そのものが燃焼できるような人生を歩んでみたいという思いに、はげしくとらわれるのだった。
私にはたった一週間にすぎなかったがある熱い体験があった。夏休みに入ると、宗教部の部員たちは、そのころ日本のチベットなどといわれた岩手県の葛尾村を目指す。その村でなにをするかというと、村の子供たちと劇づくり、それもミュージカルを作り上げるのだ。そんな活動がもう何年も前から行われていた。私もまたその夏、葛尾村を目指したのだ。東北本線の沼宮内という駅で降り、そこから一時間半もバスにゆられ、いくつもの峠をこえていく旅に、なるほどそこは日本のチベットだと思った。村に入ると私たち一行は大歓迎された。村の学校の校庭で歓迎式といったものが村の人々が見守るなかで行われた。彼らの活動がすでに深くその地に根をはっていることに、私はひどく感動したものだ。
その日から村の子供たちとの活動がはじまった。村の子供たち、村の大人たち、そして東京からきた大学生たちでミュージカルの舞台を作り上げるのだ。一週間の滞在だった。舞台装置がつくられ、コーラス隊やちょっとした合奏団がつくられ、ステージで演じる子供たちはセリフをおぼえ、さらに歌いながら踊り、踊りながら歌わねばならない。なかなか高度なステージを樫山たちは作り上げようとしていた。発表会の日がやってきた。小学校の体育館にはそれこそ村中の人々が集まってきた。その劇は素晴らしい出来だった。私たちの熱意に子供たちはしっかりとこたえてくれたのだ。
別れの日がやってきた。子供たちは停留所まで見送りにきた。バスに私たちが乗り込むと、もう子供たちは泣きだしていた。そしてバスのあとをどこまでも追いかけてくる。私のなかに熱いものがつきあげて胸がふるえた。東京に戻ってきてもその感動の余韻がいつまでも残っていて、経済学部に籍をおきただ漠然と会社員になろうとしてきた私は、むしろ教師に向いているのかもしれないと思ったが、もう針路を変更するには遅すぎた。
小井丸に会ってからその熱い体験が幾度も蘇ってくるのだった。そしてあれこそ私の中心なのではないのか。あの体験こそ私がずっと求めていたものではないのか。樫山という男に強く心ひかれてきたのも、僻地に赴任した彼のことがいつも気になっていたのも、そしてインドの奥地で苦闘する小井丸にはげしく心ゆさぶられるのも、あの体験があったからなのだ。あれこそ私がこの地上に立つための体験だったのではないかと思うようになった。もう私の心の動きを止めることはできなかった。小井丸に私の決意を伝えると、あなたがくるなと言っても私はいくつもりです。私はあなたのもとでもう一度人生を最初からやり直してみたいのですという手紙をしたためると、次の日はもう会社に辞表を出していた。
そして旅立ちの日を六月の半ばときめると身辺の整理をはじめた。離婚によって私は丸裸同然だったから、もう整理するものなどないに等しかったのだが、それでもすべきことは沢山あった。もう二度と日本に戻ってこないなどとは思わなかったが、それでも数年間はどんな事態に見舞われても戻るまいと決意していたから、実家はむろん親戚とかさらには私を愛してくれた先輩や友人たちには、きちんと挨拶をしておこうと思った。そんななかどうしても会っておかねばならなかったのは樫山だったのだ。
平島から瀬戸島、千石島、笠戸島と回った南海丸が、樫山の住む姫島を間近にとらえたのは、鹿児島を出港してから二日目の朝十時ごろだった。五月の陽光をうけて白い砂浜がきらきらと輝いていた。緑につつまれた丘陵がゆるい起伏を描いている。おだやかで柔和なたたずまいをした島だった。とうとうきた、これでようやく地獄の苦しみから解放されると思った。しかしそれにしてもなんという遠さなのだろう。まるで地の果てにきたように思えるほどだった。