残り11日となりました!
40日間に設定した本プロジェクトですが、残すところあと11日となりました。おかげ様で早々に目標金額に到達し、こうして皆様に森林関連のお話をする余裕ができ嬉しく思っております。再度皆様のご支援に感謝申し上げます!
さて前回は、これから若者が林業に参加するにあたり、安全に作業を行うための技術の継承は不可欠であることをご紹介しました。木の倒し方など、長年の経験や研究の中で育まれた技術は、機械化が進んだとしても必要になる場面が多いと思います。しかし中には、技術の発達とともに完全に消えていってしまった林業の技術があります。そのような技術は現在ほとんど見ることが出来ませんが、極まれにその痕跡が山中に残っていることがあります。今回は古座川町内に残るそんな過去の技術の痕跡(と思われるもの)をご紹介したいと思います。
木馬道?
まずは和歌山研究林近くの玉ノ谷を散歩していた時に発見したある構造物からです。それが上の写真です。一見するとただつり橋がかかっているだけに見えますが、よく見ると白丸で囲った所に鉄骨が2本突き刺さっているのが見えます。なんであんなところに?と思って近づいてみました。
近づいて撮った写真がこちらです。よく見ると奥にもう1本鉄骨があるようです。こう見ると、道の骨組みのように見えてきますよね。当初はただの旧道かな?と思い帰ってしまいましたが、研究林庁舎に飾ってあった昔の写真に、偶然同じ場所で撮られたものがあるのを発見しました。
それがこちらの写真です。鉄骨が当時のものなのか、その後のものなのかこの写真だけでは断言できませんが、少なくとも85年前ぐらい前にはここを木馬道が通っていたことが分かります。この木馬道というのは車や車道が発達する前に、生産された木材を搬出するために整備されていた木製の簡易的な道のことを言います。材を運びやすいよう摩擦を減らすため搬出方向に対し、丸太が直交するように並べられていいるのが特徴です。機動力としては馬や牛が主に使われていたようです。昭和12年に当時の農林省山林局が出版した国有林,下巻に詳しい写真が載っているのでよかったらご覧ください。
しかし、この搬出方法はコントロールが効きにくいことなどから、非常に危険な作業とされていました。そのため、後にこの木馬道の真ん中にレールを敷いた単軌木馬という手法が開発され、多少改善されることとなります。(これも国有林, 下巻に載っています。)この方法はいわば馬力モノレールのようなもので、道を外れることがなくなったので格段に安全性が向上したようです。
因みに、ある程度平坦な場所ではこのような搬出方法が用いられていましたが、山の上から谷へ下すときは木の滑り台のようなものを使っていました。この方法を修羅と呼びます。木で作った滑り台で木を下へと落とすという、単純な方法でしたがやはり危険が伴うようで次第に廃れてしまった方法です。こちらも国有林, 下巻に載っています。
森林鉄道
この木馬道では馬や牛が運べる量しか搬出することが出来ず、工業化が進む戦後になると急速に減少していきます。代わって主流となってきたのが森林鉄道と呼ばれる林業用の鉄道です。古座川町内には2カ所にこの森林鉄道があったと言われています。1カ所はここ平井で、もう1カ所は少し下流側にある端郷と呼ばれる集落にありました。平井の森林鉄道は地図を探しても見当たらなかったのですが、端郷集落のものは昭和29年発効の地図に記載されていました、それが上の地図です。林用軌道という記載が森林鉄道のことで、規格が高いものを鉄道、低いものを軌道と呼んでいました。
ということで、現地に行ってみました。ほとんど痕跡は見られませんでしたが、林道脇に時折トロッコぐらいの幅の平坦な道があるのを発見しました。当時を知る人が少なくなってしまった今、この場所が本当に森林鉄道だったのか知るのは難しいかもしれませんが、調査を続けたいと思います。
この森林鉄道は比較的大規模な構造物を必要としたこともあり、現在でも各地に痕跡をみることが出来ます。上の写真は高知県の馬路村にある森林鉄道跡です。村ではこの史跡を観光名所としているようで、森林鉄道を売り出す看板までありました。
また、現在でも稼働している森林鉄道が日本に2カ所だけ残っています、1つは知っている人も多いかもしれませんが、屋久島のトロッコ道となっている安房森林軌道です。もう一つは京都大学の芦生研究林にある京都大学演習林軌道です。どちらも定期的に利用しているわけではないうえ、木材の搬出をする機会も皆無に等しい状態なので森林鉄道と呼べるかは微妙なラインですが、過去の技術を現在へ伝える数少ない生き証人です。
木材流送
さて次は木材流送についてです。これはご存じの方も多いのではないでしょうか?道路網が未発達だった昔は、河川が山で生産される木材を消費地である河口へと輸送するのに最適な通り道でした。上流で生産された材は一本ずつ丸太で流される‶管流し”と呼ばれる方法と筏を組む‶筏流し”と呼ばれる方法がありました。
ここ古座川でもこの木材流送が行われていました。研究林庁舎に当時の写真がありました。この写真では管流しを行っているようですね。古座川では管流しも筏流しもあったようですが、カーブがきつかったり幅が狭い上流部では管流しが主流だったのかもしれません。
こうして上流から送られてきた木材は河口にためられます。そしてここから各地へと海運や鉄道を使って出荷されていきました。しかし、ダムの完成や路網整備が進むにつれ河川輸送は安全性などの面から次第に衰退し、現在ではほとんど行われていません。和歌山県の北山村では観光用にこの技術が残され、筏に乗って川下りができるので興味のある方は是非調べてみて下さい。さて前置きが長くなってしまいましたが、この木材流送の痕跡が古座川町内に残っていたので、ご紹介します。
それがこの穴です。(ちなみに付近の道の駅で配られている地図に観光スポットとして載っていました。)「河川に木材を流す方法だって言ったじゃないか?」と思われたかもしれません。そんな方のために、この穴がどのように使われていたかご紹介したいと思います。ただし、当時を知る人には会えなかったので、あくまで僕の考えです。
このトンネルがあるのは古座川の支流である立合川です。位置関係は上の図のようになっており、カーブの先端で古座川とトンネルでつながっていました。この地理的条件から考えると、立合川の流域でとれた木材をカーブの手前まで運び、そこからショートカットトンネルを利用して材を搬出していたと考えられます。しかしなぜ、わざわざショートカットしていたのでしょうか?それは恐らく立合川の流量と、その下流にあった道が関係しているものと思われます。上の写真は穴を遠くから見た写真ですが、立合川の流量がそれほど多くないことが分かります。このような場合、木材流送では鉄砲堰と呼ばれる構造を作って水をため、その堰を切った勢いで一気に下流へと流す方法が行われていました。
しかし、この鉄砲堰は水とともに木材も大量に流れることになるため、下流の橋は十分な高さが無いと材と橋が衝突してしまい、木材の価値も下がるとともに橋を破壊してしまう可能性があります。立合川ではこのトンネルの下流に高さが低い橋があるので、恐らく鉄砲堰を作ることができなかったのではないでしょうか?そのため、トンネルを作ることで、別の流路を作り、そこから古座川へと木材を搬出していたものと考えられます。トンネルから丸太が次々と飛び出してくるところを見てみたかったものです。
少し長くなってしまいましたが、本日は以上です。まだ紹介したい場所があるのでまたの機会にご紹介したいと思います。