2021/05/17 20:00

 月の浦のサンファン館の造りは見事。入り江からせり上がった海岸段丘に立つと係留さ                                     

れているサン・ファン・バティスタ号を一望できる。この入り江から出帆したのだとの確                                    

信の下に造られている。船は原寸大。今は船内の見学は禁止。代わりにミュージアムに船

内と乗組員の全貌が在った。四百年前のすべてが此処に在った。

 マリアは展示のひとつひとつに見入っている。展示と掲示されている記述のひとつも逃

すまいと。海彦はマリアから質問されるまで、話しかけたり、掲示への補足を止めた。集

中しているマリアの好きなようにが良と思った。マリアはガラスに額を接するように見つ

めていた。四百年前と嘉蔵を確かめているように思えた。

 一時間ほどでマリアは館内を進路指示に沿って廻り終えた。ボーッとしている。取り込

んだ様々な情報を整理できない時のボーッ。

「休憩しょう」

 海彦は二階の眺望が開けているラウンジにマリアを連れた。湾内には無数の牡蠣の養殖

筏が並び、対岸が明るく、くっきりと映る。夏の石巻湊の景色は何時も靄がかり。

 マリアはメロンソーダを頼んだ。海彦はいちごジュース。

「嘉蔵はこの船に乗って来たんだ。一年二ケ月をかけて。太平洋を渡ってからはチリの南

端を廻り込んで大西洋に出てからは北上。赤道を越えてスペインに着いたと思っていた。

違った。本当に命がけの航海。嵐の時は恐かったろうね。嵐に襲われない時は退屈だった

と思う。何をして退屈をまぎらわしていたんだろう」

「釣り。それと鍛錬。嘉蔵は藩の道場の師範だったから剣を磨いていたと思う。他には操

船技術の習得かな。これは推測だけど天体観察」

「嘉蔵は退屈していなかったんだ。どうしてチリの南端を廻らなかったんだろう…」

「嘉蔵は技術者で発明家でもあったから退屈しなかったと思う。まだパナマ運河は無かっ

た。チリの南端はホーン岬。南極からの季節風が吹きまくって帆船にとっては地獄岬だっ

た。海図も無い。今でも航海の難所。アカプルコからメキシコ湾まで山道の三〇〇キロを

歩いて別の船でスペインに向かうのが最も安全。カリブ海を抜けてメキシコ湾海流に乗る

とやがて大陸が見えてくる。距離も近い」

「海彦。見て。ソーダ水の中を白い船が通る」

「ほんとだ。貨物船ではないけれどフェリーが走っている」

 ソーダ水に顔を近づけた海彦にマリアが呟いた。

「海彦。昨日駅から家に戻る時にわたしを避けたでしょう。わたしと眼を合わせずに逸ら

していた。わたしは海彦から手紙をもらった時から、海彦はどんな高校生なんだろう。ど

んな日本人なんだろう。どんな伊達男なんだろうと想いを巡らせていたんだ。わたしは海

彦に逢えるのをイチバン楽しみにしていたんだ。それなのに態度がよそよそしい」

 マリアはテーブルに頬杖ついて遠くのフェリーをぼんやりと見ている。

 眸から涙が零れ落ちていた。

「わたし。海彦とちゃんとお話しできるか不安だった。中学からカトリックの女子校。学

校に男性は神父さんだけ。日本語学校には同じ年頃の男の子が居るけれど話したことない。

仙台駅に近づくにつれてわたしのドキドキは最高潮。ヨ~シと頬っぺたを叩いて気合を入

れた。そうしたら海彦はわたしを避けていた。わたしは嫌われている」

「俺。ドギマギしちゃって。顔が紅くなってしまった」

「わたし。男の子から手紙をもらったのは初めてなんだ。わたしは家族との写真を送った。

海彦からは写真が送られて来なかった。それからなんだ。わたしが行くのは迷惑なのかも

知れないと…。でも違う。手紙には大歓迎と書かれている。けれど本当かは分からない」

「俺も女の娘に手紙をかいたのは初めてさ。彩からマリアから写真が届いたのに家族写真

を送らなくていいのと言われていたんだ。だけど照れくさくて…」

「わたし。分からないから海彦を想い続けた。想っていれば何か分かるかも知れないから。

わたし。神さまにお願いしたんだ。優しくてシャイな海彦で在りますようにって。初対面

では海彦は優しそうに写った。願いはひとつ叶った。でも。わたし。海彦に嫌われちゃっ

た。神さまは頼りにならない」

「…」

「海彦は嘉蔵が戻らなかった訳を尋ねてきた。わたしはコリア・デル・リオに来ないと分

からないと返事を書いた。それは本当の処が分からなかったから。海彦が何時かコリア・

デル・リオに来た時までには分かるようにしておくとの意味だったの。上手く書けなかっ

た。生意気だったかも知れない。海彦に生意気だと思われてしまった。だから無視された。

嫌われてしまった。わたし。帰る」 

マリアが席を立った。階段を足早に降りた。 

たたみかけるマリアの涙声に、うろたえ、言葉を喪っていた海彦は、「帰る」で、我に

返った。会計を済ませ海彦は階段を駆け降りた。

…帰るって何処に帰るつもりなんだ。スペインに。まさか。マリアはスペインから俺を頼

って独りで来たんだ。なのに俺は馬鹿っぽい未熟をさらけ出してたんだ。間抜けだ… 

 外に出た。マリアが見当たらない。海彦はバス停まで走った。人通りは疎ら。マリアの

姿は何処にも無かった。客待ちのタクシーの運転手に尋ねると「外国人の娘さんはタクシ

ーに乗った。走って来て急いでいる様子だった。それに泣いているようだった。兄ちゃん。

喧嘩したのかい」。家に戻らなければスペインには帰れない。パスポートは肌身離さず持

っていたとしても荷物や航空券は家。それらを置いてマリアは帰れない。

 海彦は尋ねた運転手の車に乗り『JR石巻駅』を告げた。

 マリアを一人で家に帰してはいけないんだ。家族に異変を感じ取られてしまう。日本に

居る間はマリアに幸せな時間を過ごしてもらわなければ仙台に来た意味がなくなる。俺が

台無しにする訳にはゆかない。それに俺の想いも伝えていない。

 JR石巻駅構内にもマリアの姿は無かった。

 仙台行きの電車までは四〇分。駅前には『docomo』が在った。

 あてもなく走り回っていてもマリアを見つけ出せない。マリアは仙台行きの電車に必ず

乗る。駅前からは仙台行きのバスも走っている。ターミナルから出発するバスの行き先は

数ケ所。初めての地で仙台行きのバス乗り場を直ぐに探し出すのは無理。

 海彦は『docomo』に入った。

 近づいてきた女の店員に「はぐれてしまった外国人をGPSで探して欲しい」と頼んだ。

「分かりました。その方の氏名と電話番号。貴方の氏名と電話番号を御記入願います」

 店員が業務用パソコンに向かい操作している。

 海彦はヤキモキしながらも祈っていた。

…見つけてくれ…

 間もなく店員はプリンターを動かした。

「見つかりました」

 店員はプリントされた用紙を海彦に差し出した。

「誤差は通常五〇メートル以内なのですが近くに居りますので誤差はほとんどありません。

お探しの方は此処です。『紅屋』と言うお土産屋さんですね」

 店員が指で示した処には赤丸が記されていた。店員が立ち上がり入口のドアの向こうを

指さした。『紅屋』は駅前の広場に隣接する商店の一角に建っていた。

 無料だった。海彦は店員に礼を言い『docomo』から出た、良かった。見つけられ

無かったなら為す術がない。途方に暮れる。良かったけれどどうしよう。『紅屋』に入っ

てマリアの肩を叩こうか。それとも駅で待とうか。激したマリアが落ち着くまでには時間

が必要だ。女の娘とは男とは別の生き者なんだ。彩を見ているとよ~く分かる。落ち着く

と何ごとも無かったように復活する。

 海彦は駅で待つと決めた。

 仙台行きの電車まで後一〇分。

 海彦は腕時計と駅の壁時計を見比べた。

 ふたつの時刻に違いは無かった。

 あと一〇分でマリアが現れなかったら…。

 海彦はその時からの先を考え始めた。

 マリアが石巻で失踪するとは思えない。けれど見喪ったのは俺の責任だ。何としてでも

見つけ出し一緒に戻らなければならない。見つけ出さないと、マリアは田舎の港町に、独

り、残される。幾ら聡明で賢いマリアでも心細い想いの中に佇む。『紅屋』に向かうのが

正解だったのかも知れない。そうすればヤキモキしなくとも済んだ。

 海彦は駅の出入口に立っていた。

『紅屋』を凝視していた。

 マリアの姿は無い。

「海彦。待った…」

 振り向くとマリアが土産袋を下げて立っていた。

「良かった。仙台に戻ろう」

 マリアは頷いた。少しも悪びれていなかった。

 海彦はマリアから差し出された支倉焼を食べた。一緒にひとつずつ食べた。

「美味しいね。お土産屋さんに一〇ケ入りが売っていたんだ」

 海彦は「美味しい」と相槌。マリアは車中から復興を遂げた石巻の市街地を追っていた。

「帰る」と言ったマリアは「帰る」と言ったことを忘れているようだ。マリアは激したら

止まらなくなる。やはり日本人とは違う。日本人なら激したとしても感情を控え目に言い

表わす。「帰る」とは言わない。「帰る」と言ったとしても突然走り去らない。時々忘れ

てしまうけれどマリアはやはりスペイン人なのだ。

「わたし。海彦に叱られると思っていた。でも海彦は叱らない。どうして…」

「俺が悪いから」

「わたし。もう思い残すことはない。海彦と家族に会えた。友好協会の皆さんからもてな

しを受けた。政宗も見た。仙台の季節を感じた。街並みも眺められた。嘉蔵が乗った船と

四百年前をサンファン館で知った。だからもうイイと思った」

「マリア。もう帰ると言わないって約束してくれないか」

「約束できない」

「どうして」

「だって海彦次第だから」

「マリアを生意気だとも思っていない。マリアに慣れるまで時間がかかった。マリアは俺

の想像を超えてたんだ。生意気だと思って嫌っていたら一緒にサンファン館に来ない」

「ほんと。わたし。海彦に嫌われていないの…」

 伏目の眸が開きマリアは海彦を見つめた。

「無視してゴメン」

 マリアの表情がようやく輝いた。

「わたし。神さまに謝らなくては。頼りにならないと言ってしまった。ゴメンナサイ。海

彦はシャイで優しい伊達男だった。日本とスペインの小旗も可愛かった。でも。わたし。

嘉蔵を尊敬できないと言い放つ海彦を好きになれない」

「…。マリア。仙台に戻ろう。伝えたいことが一杯あるんだ」

「うん。優しくしてくれてありがとう。海彦への質問がひとつあります」

「…」

「嘉蔵を偉大と思っている海彦は何故、尊敬できないのか。その理由を教えて欲しい」

「嘉蔵不帰還は謎のままだ。俺は謎を解き明かしたいと思っている。俺には戻らなかった

嘉蔵に人間的な欠陥が在ったのでは睨んでいる。俺は謎を解き明かしそれを証明しようと

考えている。幾ら隠居の身であったとしても、死を覚悟して旅立ったとしても、帰ろうと

すれば帰れた時に、家族を仙台に残して帰らなかった嘉蔵。これは異常だ」

「確かに普通ではないよね。普通ではない男伊達が八名も居た。海彦の仮説では、残った

嘉蔵以外の七名も、みんな、人間的な欠陥が在ったことになる」

「俺の言い方ではそうなってしまう。けれど人それぞれに異常な何かが在ったんだと思う。

俺は嘉蔵が戻って来なかった家族の想いや困難を知ってるから…」

「わたしも仙台に来てから嘉蔵不帰還の謎を考え始めた。わたしは爺ちゃんから、村の人

たちに…残って…と頼まれた。それで嘉蔵は帰らなかったと伝えられている。海彦は嘉蔵

の和歌を手紙に書いてくれた。爺ちゃんから語り聞かされた…残って…を思わせる内容だ

った。何処にも嘉蔵の人間性の欠陥を思わせる行は無い。わたしは嘉蔵に普通ではない重

要な何かが起こったと考えているんだ。八名にもそれぞれ普通ではない何かが…」

「普通ではない重要な何かかぁ…」