■ 政治少年死す(岸部実)
来年の七月に講談社から『大江健三郎全集』が刊行される。その
中に『政治少年死す』が収められている。それを知ったわたしは興
奮した。やっと読める。講談社の勇気を讃えたくなった。『政治少
年死す』は『文学界』(一九六一年二月号)に発表されたものの単
行本の出版は見送られた。右翼から執拗な抗議があったのだ。
ワタシが『セブンテーン』を読んだのは十七歳の夏だった。一九
六五年。その時には『政治少年死す』のお蔵入りが報じられていた。
「出版社に迷惑をかけられないから」と大江健三郎は『文学界』に
載せただけで出版を断念した。
―今日はおれの誕生日だった。おれは十七歳になった、セブンティ
ーンだ。家族のものは父も母も兄もみんな、おれの誕生日に気づか
ないか、気づかないふりをしている―
これが『セブンティーン』の始まり。物語は少年の孤独感から始
まる。『セブンティーン』と『政治少年死す』の主人公は「おれ」。
「おれ」は山口二矢(おとや)がモデル。彼は浅沼稲次郎を壇上で
刺し殺した。ワタシはそれをテレビで観ていた。浅沼稲次郎社会党
委員長が演説中に衆目の下で刺されるとは思いもよらなかった。
「刺されました‼」
テレビの絶叫で理解したが、それでもピンとこなかった。まさか、
の方が強かった。
山口二矢は獄中で自ら命を絶った。この瞬間から彼は神になった。
一人一殺を果たした彼は右翼運動の鏡になった。
『セブンティーン』では主人公が覚醒してゆく、そのひとつひとつ
が丁寧に書かれている。覚醒してゆく過程で「おれ」は孤独感から
脱する。大江健三郎の何時もの粘液質な文体ではない。孤独と向き
合いつつも躍動しようとする少年。躍動するには、自分が何者であ
るのかに気づかなければならない。何者で在りたいかのかと願い、
求める心の動き。然して少年の心は日々揺れる。未熟。それでも少
年は自己確立を遂げる。それが政治少年。その萌芽は在っても、こ
の作品では現れて来ない。それは『政治少年死す』の役割。
ワタシは『セブンティーン』を読み終えると『政治少年死す』を
どうしても読みたくなった。自己確立を遂げた少年が、標的を定め、
刺し殺すまでの懊悩や葛藤、そして不安。不安とは一撃必殺をやり
とげられるのか。失敗するかも知れない。刺した後の恍惚。死の知
らせを聞いた時の達成感と至福。後悔は描かれないであろう。自ら
の死に辿り着き、覚悟を決めるまでが…。そして死の直前を。
ワタシの願いは叶わなかった。海賊版すら封印されていた。図書
館の『文学界』一九六一年二月号は貸出禁止。言論への弾圧に屈し
た出版社と図書館が腹立たしかった。
大江健三郎は『政治少年死す』の主人公を、おとしいれたり、揶
揄したり、嘲りなどは決して書かない。褒めたり、まして英雄視も
しない。少年の真直ぐな、想いの丈を、一途に描きたかったのだと
思う。それでも右翼は許さなかった。作品の内容を問題視したので
はない。昇天した神を扱うのは許されなかったのだ。
それが五八年の歳月を経て世に出る。やっと読める。
山口二矢は、ワタシと同じ、札幌市立柏中学校の卒業生だった。
■4/12にリターンを考えました。アップしています。