この日の夜。氷空ゆめは新月でもないのに思いがけない夢を観た。
夢は地下室を映し出していた。
六人の侍人が床に据えられた裸電球の灯りを囲んで車座。
灯りが六人の顔を下から照らす。
僕ちゃん角野さんだけが輪から離れ車座の周りをウロウロ。
その影が壁に揺らめいていた。
ギリヤーク笹山さんが経を読み始めた。
皆が続いた。僕ちゃんも徘徊を止めて続いた。
ギリヤークさんの読経が地下室に響き渡る。
七人の侍人の読経はユニゾーン。乱れが無い。
読経が終わった。
隊長さんが「みんな。ありがとう。今日で一五年。早いものだ。
こうして供養してもらって芳恵はシアワセ者だ」。「芳恵姉さんは
今なら助かったのに。それが残念だしくれぐれも惜しまれる」とア
キラさん。詐欺師の高田宗熊さんが「オレが一番面倒見てもらった
」。「そんなことはないぞ。みんな喰えない時代が大なり小なり在
った。姉さんのお陰で今日まで生き延びた」と泉澤繁さん。「そう
だな」としんみりした僕ちゃん。リックさんが「姉さんの病が発覚
した時にワタシはドナー登録した。ワタシに続いて皆も登録した。
でも皆のドナーが姉さんと合致しなかった。日本中を探しても合致
者は居なかった。登録者数が少なすぎたんだ」。「悔やんでも悔や
み切れないなぁ。池江璃花子も一五年前に発病していたら助からな
かった」とギリヤーク笹山さんが唇を噛んだ。「おいおい。しんみ
りは芳恵も望んでいない。賑やかなのが好きだった。俺がイチバン
面倒見てもらったんだ。俺は芳恵のお陰で真人間になれたんだ」。
リックさんが酒を出した。
用意していたワイルドターキーを。ロックグラスと氷を差し出し
てから「姉さんは俺の裡では日本のイルザなんだ」。
隊長さんの「賑やかなのが好きだった」に反して、みんな黙り込
んで飲み始めた。壁には裸電球の陰がしんみりと揺れていた。
…そうか。横須賀に残してきた女は芳恵さんなんだ。隊長さんと一
緒にサッポロで暮らしたんだ。芳恵さんは皆の面倒を見たんだ。だ
から慕われているんだ。隊長さんを教育者に導いたのは芳恵さんか
も。きっとそうだ。一五年前に亡くなったなんて酷。逢ってみたか
ったなぁ。七人の侍人の繋がりには歴史と奥行きが在る…
…つけられている…
氷空ゆめが背後からの視線を感じ始めたのは『Casablan
ca』の翌日の下校時からだった。背中にまとわりつく視線。時に
は横からも見ている。恐らく一人。
これは見られているのではない。監視だ。今日で三日目。
氷空ゆめは地下鉄東西線大通駅の改札口を出ると後ろを振り返っ
た。二〇Mほど離れた人影が横に消えた。影は男だった。それ以外
は識別できなかった。誰かが後をつけている。監視している。気味
が悪い。誰が。何の為に。
仲美子には言わなかった。
…美子が尾行されていると自覚したら必ず速攻で言う。勘働きの優
れている仲美子が尾行に気づかないはずがない。言わないはずがな
い。だったら尾行されていない。おかしな心配はかけられない。で
も、どうしよう。困ったな。尾行はイヤだ。気味が悪い…
翌日。琴似駅までの東西線は混んでいた。
影は近くに居た。
氷空ゆめは吊り手を右手で握り、鞄を胸の前で抱え、身体を固め
た。昨日、気づかれたと思った影は何を企んでいるのだろう。影は
混雑の中を近づいて来る気配。痴漢。まさか。怯えた。
ひと度、怯えると震えが走った。
両手に力を込めた。
震えが激しくなった。
もう止まらない。
その時ポンと右肩を叩かれた。
「いや~」
乗客が一斉に氷空ゆめを見た。
「大事ないか。震えている」
振り向くと声は少年だった。
「恐い」
「次の二十四軒駅で降りよう」
少年は氷空ゆめの肩を自分に引き寄せた。
右手を引かれ、乗客に揉まれ、電車の乗降口から外に出た。
…男の人に手を握られたのは初めて…
震えが小さくなった。
影も同じ扉から降りて来た。
「あの人。あの人がわたしをつけているの」
氷空ゆめは右手で小さく指差し、鞄を両手で抱えて、少年の背後
に隠れた。今日の影は隠れない。忌々しそうに堂々と近づいて来る。
もう三Mの距離。
「なぜつける」
「お前には関係ない」
影は少年に殴り掛かった。
少年はバックステップ。
氷空ゆめは邪魔にならぬように退き離れた。
またも震えが波打った。
少年は背負っていたギターケースを素早く下ろし影の顔面を突い
た。見事に決まった。影はもんどり打った。
「この野郎」
影が立ち上がった瞬間にギターが右足を払った。
影が跳んだ。
少年は影を見降ろし「恥を知れ」。
これで影は戦意を喪った。何も言わずに改札口に向かい階段を逃
げた。顔を押さえ、右足を引き摺っていた。
ホームに居た数名から拍手が起こった。
少年はギターを背負うと氷空ゆめをギューッと抱きしめた。
「もう大丈夫だ」
震えが止まった。
電車がホームに入って来た。
「わたしは宮の沢駅まで。あなたは…」
「では宮の沢駅まで行くとしよう」
「あの~。ギター。壊れていませんか」
「壊れていたとして大事ない。もう一本ある」
「壊れていたらわたしに直させてもらえませんか」
「気遣い無用。君は旭ケ丘なんだね。制服で分かった」
少年は背が高かった。
少年は電車が宮の沢駅に着いてからも乗り継ぐバス停まで傍らに。
「では拙者はここで。琴似駅まで戻る」
少年は一礼すると踵を返した。
「あの~。名前を教えて下さい」
少年は振り返ると「名乗るほどの者ではない」。
駅の階段を軽やかに降りて行った。
今度は、氷空ゆめの鼓動が、激しく鳴り始めた。
■4/12にリターンを考えました。アップしています。