九月中旬。サッポロの山近くに羆が出た。羆の姿が住宅地でも幾度も目撃さ
れた。糞もあちこちに。畑の作物を狙って山から下りてきたのだ。花南は畑ま
でチャリを走らせた。収穫の頃だった。畑の手前にはミニパトが一台。
『羆出没。注意。夜間には出歩かないように』
作業服姿の男性二名が看板の杭を打ち込んでいた。
花南が畑に近づこうとすると警官に呼び止められた。「あそこがわたしたち
の畑」と指さした。「気になって来ました」
ブルトン婆さんは来ていない。
警官の一人が「どれ一緒に行こう」と言ってくれた。
畑は荒らされていた。五〇本のとうきびは全て喰われていた。残骸が畑に広
がっている。枝豆も全滅だった。
花南はガッツポーズ。
小声で「羆さん。ありがとう」。
花南はブルトン婆さんに羆の襲来を告げた。嬉しそうに言ってしまったのか
も知れない。多分そうだ。嬉しかったのは本当だから。
「嫌味な子だね」が婆さんの返事。
根に持つとしたらこの時のことだ。
余計なことをしてしまった。でも言わずにはいられなかった。
ブルトン婆さんはキョロキョロしない。視野が極端に狭い。一点をジイッと
眺めている。見つめているのではない。目線を変えると自分の立っている処が
分からなくなるのだ。だからひとつ処を眺める。その視界に入ったなら厄介だ。
用もないのに話しかけてくる。これは要警戒。以前に一度応じてしまった。ダ
ラダラと愚痴を聞き続けた。話しの腰を折って立ち去った。背後から「あんた。
学校に行っていないのかい」と聞こえた。無視した。それも根に持つひとつか
も知れない。キャップ爺さんもブルトン婆さんも根に持つのは得意そうだ。
冬は嫌いだ。雪と氷でチャリに乗れない。中央図書館までは市電。片道二〇
〇円。往復で四〇〇円。これは痛い。節約と思って一度歩いた。着いた時には
全身がシバレていた。指先も白くなった。ローソク状態。身体が温まるまで一
Fロビーの椅子にコートと耳当てと手袋のまま座っていた。回復するまで一時
間もかかってしまった。無駄な時間を費やしてしまった。
花南は真冬には無理できないと悟った。
それでも二月になればサッポロの冬は緩む。真冬日がどんどん減ってゆく。
花南のかじかんだ身体も少しずつ緩んでゆく。今年の啓蟄は三月六日。サッポ
ロの虫は仮死状態。目を覚ましてモゾモゾと動かない。動き出すのは四月の中
旬から。それも天気が良くて陽の当たる場所のみ。花南は暦の言い伝えが疑問
だった。勉強するほどに北海道と合致していない日本の暦。それはそうだ。日
本の暦は稲作の為に作られている。西日本がルーツの暦。それがサッポロに当
てはまるはずがないと…。北海道は明治になるまで蝦夷だったのだ。
チャリに乗れるのは道路の雪と氷が融ける三月下旬まで待たなければならな
い。乗れると云っても時どき。まだまだ雪が降る。四月になっても降る。花南
はチャリに乗れる季節の到来を待ち侘びていた。活動の季節が好きだった。
今日はバレンタインディ。陽が出ていて珍しく温かかった。花南は何時もの
ように一〇時前には家を出て電停に向かった。道路にはアスファルトが顔を出
していた。健太にはゲンコツチョコでも贈ってやろう。それから近所のスーパ
ーに連れて行ってガチャガチャを一回。必ず喜ぶ。健太もそろそろガチャガチ
ャを卒業しても良い頃だ。と思ってもなかなか卒業しない。
花南がガチャガチャを卒業したのは小六の修学旅行から帰って来てからだっ
た。あれから三年半。ガチャガチャのメーカーも卒業させまいと新商品をさり
気なく売り場に置く。子どもたちはそれを見逃さない。健太も同じ。新しく発
売された商品とお菓子を目ざとく見つけ、幼い頃から、そこを動かなかった。
…健太以外にチョコを贈れるようになるのは何時…
花南は今は無理と言い聞かせた。図書館通いの毎日では出逢いがない。浪人
生のような生活を続けているうちは無理。でも何時かその日はやってくる。今
日のように、頬っぺたが赤くなっても、温かい陽射しに包まれる、晴れの日は
必ずやってくる。楽しみがあると元気に今日を過ごせる。
電停のホームに立った。
いやだ~。また見られている。一週間に一回のペース。金曜日に限ってのシ
ツコイ視線。それも図書館に行く電停までの距離と電停に立ってる間のまとわ
りつく視線。それがムズイ。視線が頭の後ろに食い込んでくる。
花南は後ろを振り返った。
やはり誰も居ない。
市電が見えた。
あと少しの辛抱。
電車に乗れば視線が消える。
信号待ちは花南の他に三人だった。
赤ん坊を背負ったスクエア眼鏡の母さんが居た。
母さんは花南をチラッと見てからは明らかに無視した。
やはり怪しい。
他には高校生の男女二人。
信号が変わった。
三人とも市電に乗る様子。
この間も背後からの視線は止まなかった。
市電のドアが開いた。
花南は真っ先に乗り込んだ。
空き席が在った。
また進行方向と逆のスペースに立った。
電車の中と外が一望できる位置に構えた。
電車が動き出した。
一人の作業服姿の中年男が歩道から花南を見つめていた。
目力が強い。
スクエア眼鏡のヒステリー母さんの目力ではない。
コイツだ。
花南は顔を記憶に焼きつけた。
電車が遠ざかるにつれて視線が弱くなり消えた。
…これってストーカーだ‼だったら目的はナニ‼誘拐‼…
身体がすくんだ。
誘拐するには動機がある。
…何だろう…
誘拐は無理やりできない。人目に付かない処で大きな袋を被せて運ぶ。口に
は猿ぐつわ。これは誘拐ではない。拉致だ。一人ではできない。年寄りには無
理。中年男でも二人以上は必要。いきなり大きな袋を被せられたら誰もが半狂
乱で暴れる。泣き、叫ぶ。暴れる袋ごと担ぎ運ばなければならない。
…きっと拉致された人たちもそうだったに違いない…
年寄りだからと云って油断してはイケナイ。誰かに頼むこともできる。そう
すれば目的に近づく。中年男は尚更警戒しなくては…。とにかく人目に付かな
い処は止す。困った時は大輔。お兄ちゃんは頼りになる。
花南は図書館からの帰りに板チョコ二枚を買って大輔の家に向かった。
■4/12にリターンを見直しました。アップしています。