父方の話が続いたので、母方のことも書いてゆきます。
うっかり真面目のような話が続いてしまっているのですが、お好みの方に届けば。
70年代の工場町
前回語っていなかった私の母方は香港・上海ルーツなのだが、
母は重慶あたりで生まれて、住んでいたところは、
工場を中心にした一つの団地というか、都市機能を持った町になっていたという。
食べ物などは、配給チケットで手に入れていたそうだ。
工場町の中に、工場の従業員の子供が通う学校があり、
そこで祖母は教鞭を取っていた。
とても厳しく、生徒である母は何か間違いをおかすと、定規で叩かれた。
祖母は、もともと香港で複雑な家庭に生まれ、みなし子同然だったのに、とにかく本が好きだった。
持っているものが何もなかったので、本屋さんなどで立ち読みした。
その後、学費がいらない師範学校で勉強して先生になったらしい。
街から街へ
母も小学校の頃には、貧しさのせいで一度、父母の元を引き離されている。
それが彼女が幸せな子供時代を過ごした上海で、父方(私にとって祖父)の親戚に預けられていた。
さて、母の父が、母が16歳くらいの時に亡くなった。それで別れて住んでいた祖母と合流して、列車で香港に行ったという。香港は当時まだイギリス領だった。お金がなく、働くために年齢を偽ったため、今も戸籍の誕生日が違う。
だから祖母と母は、大人になってから不仲な時期があった。
でも、数ヶ月前につぶやいていた。
子供の頃、祖母から絵のついた童話集(グリムやアンデルセン)を買ってもらったことを思い出し、大変だったけど愛をくれていたのね、と。
香港で働いている中で、父に出会った。父は日本企業に勤め始めていて、出張で来ていた。
それで、当時の環境から飛び出したかった母は、最初は留学ということで日本に渡ったそうな。
母は香港から、そして祖母から離れたかったという。
祖母は最初反対して、母のパスポートも隠してしまったが、
どうにか説得したそうで日本に渡った。
カクカクしかじかじかで、その後、私と兄弟が日本で生まれて今に至る。
(そういえば、この辺りも時系列や土地が曖昧なので、詳しく書いて行ってもいいかも。
母がもうエッセイに書いているかもしれないので、聞いてみます。)
前に、私は人から「日中友好ってそんなに言い続けないとダメなものなん?」
と言われたことがある。
意識しない人も必ず大きな影響を受け合っているし、
特に、困る人もいる。
だから、一つ一つ重ねていくことで、
「少しでも仲良くしよう」という方に心が動く人もいるかもしれない事を、
よすがとして活動しています。