引き続き、小説「大地の子」を読んでいて、見聞きしたことを、ちらほら思い出します。
中国に関する話で、覚えている事を、ざっくばらんにしたためていきます。
こう言った蓄積が創作の根っこになると思っているためです。
完成品は、もっととっつきやすいものとなります。
この辺りは興味ある方だけ読んでいただければと思います。
「大地の子」と子供の災難
「大地の子」の主人公・一心は、戦災孤児として各地を彷徨うなか、街頭で売られてしまる。
でも、子さらいは今の時代もいて、腕とかどこかを欠損させて、物乞いをさせるという。
ハルピンのあたりは、冬には零下何十度にもなる寒さで、中国の北の方の暖房「オンドル」は寝台のすぐ近くに釜があって子供が落ちて死んだという話も多かったらしい。
食べること 生きること
「大地の子」にゆかりある父方の昔話は、大体、父の姉である叔母から聞いた話だ。
一家の住んでいたところは北方で、文化大革命の時に、姉弟たちが下郷(青少年が農村に行く政策があった)したのは、「小古洞」というところだったらしい。
貧しい農村で、木々には葉もなく、スズメなどのどこにでもいるような小鳥もいなかったという。あまりの貧しさにみんな食べられてしまったからだ。
食料はとうもろこしの粉で作った饅頭など、じゃがいもは保存食として凍らせるためスカスカになり、解凍すると黒い汁が出てきた。
栄養になるものがほとんどないから、どんどん口に入れる癖が付いて、父方の家の人たちは、今もみんな大食いで、かなり体格がいい人が多い。
それから、何かの時に、子供たちだけで徒歩で移動することになったらしく、出発地から、ゆで卵を大事に持っていたという。
けれど、砂漠のような土地だったので、石もなく、割ることができなかった。父の姉である叔母たちが困っていると、5歳くらいだった父が、突如、ゆで卵を、おでこに打ちつけて割った。叔母たちは驚いたそうな。
祖父母が一緒に暮らしていたハルピン時代は、普通に学校も行けていたという。だから、叔母は田舎の小学校で教えていた。そういった田舎では、例えば先生が小学校四年生までしか出ていないと、四年生までの授業しかできない、という状況だったがだからこそ尊ばれた。
そこから紆余曲折あって、一家で日本に渡った。
人の縁とは不思議なもので、叔母は、今も当時の「小古洞」の時の生徒さんと、wechatを通じて再開して連絡を取っているという。同じく、家族の知り合いだっというおじさんが、私の中学校の近くで中華料理屋さんを営んでおり、ある時父と母と私で食べに行ったら、たくさんの料理を振舞ってくれた。
サソリ
最後に私の笑い話なのだけど、2歳ごろ、初めて飛行機で北京に行ったらしい。
食事にサソリが出てきて、何も知らない私が、母に言ったことには、
「この エビ おいしいね」
(と言ったのが、今回の「びっくりサソリコース」の由来だったりする)
ということで、脈々と命をいただいて生きています。
長々とお読みいただきありがとうございました。
次回は、一旦母方の話を書いてみます。これからもお楽しみに!