はじめに・ご挨拶
はじめまして、藤家溪子(フジイエケイコ)です。長年、クラシック音楽の作曲家として、オーケストラや室内楽、合唱などのために作曲してきました。2019年から、縁あって西アフリカのブルキナファソの音楽家たちと共に、現地でオペラを作るという独創的な本プロジェクトを始めて2年近くになります。プロジェクトが大きく広がり始めた今、皆様にプロジェクトのチームメンバーに加わっていただけたらと願っております。これまでの経緯と想いを綴りましたので、少し長いですが、どうぞ最後までお読みいただき、共感いただけましたらぜひ、サポーター/オブザーバーとしてプロジェクトにご参加いただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

以下順に、1. このプロジェクトで実現したいこと、2. やろうと思った理由、3. これまでの活動、4. 主なメンバーの紹介、5. 実施スケジュール、6. 集まった資金の使い道、7. 皆様へのリターンについて記述させていただきます。
1. このプロジェクトで実現したいこと
アフリカは日本にとってはまだまだ遠い地で、旅行で訪れる人も決して多いとは言えません。特にサヘルと呼ばれる、サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域、西アフリカ諸国については未知の部分が大きいのではないでしょうか。貧困、疫病、テロリズムなどの暗いニュースは伝わってきますが、そこに息づく豊かな文化、私たち日本人も大切にしてきた共同体や家族の結びつき、厳しい自然環境や貧困を生き抜いていく力など、素晴らしい部分をもご紹介し、共有させていただきたいのです。
ブルキナファソは世界最貧国の一つに数えられています。物価は日本のざっと5分の1以下です。来たばかりの頃は、人々の貧しい暮らしぶりにかなり驚きました。 縁あって、ここでオペラ制作に取り組むことになりましたが、この国ではオペラというものはまだ知られていません。ですが私は、この国の人たちに西洋の伝統的なオペラを紹介したり、それを普及させたいと思っているのではありません。アフリカ人が書いたアフリカの物語に基づく、演劇と音楽の一体となった作品、つまりアフリカ独自のオペラの制作のために現地の人々と協働し、その誕生に立ち会いたいのです。
オペラは総合芸術で、たくさんのスタッフ – 台本、作曲、演出、舞台美術と、出演者 – 歌手、楽器演奏者、作品によっては役者やダンサーも必要ですので、いかに物価の安い国といえども、経費はそれなりに掛かります。
息子に音楽の手ほどきをするグリオ
グリオと呼ばれる人たちは、サハラ砂漠以南のいわゆるブラックアフリカと呼ばれる広大な地域、とりわけ西アフリカに存在し、先祖代々口承で豊かな音楽・芸能を継承してきました。ジャズやラップなどのルーツもここにあります。複雑かつ華麗で、しかも魂に直接響いてくるようなポリリズムのビートはブラックアフリカの音楽のよく知られた特徴ですが、コーラのような弦楽器の優雅で繊細な表現も、昨今広く知られるようになってきました。このような多種多様な音楽表現が、アフリカの苦難の多い歴史の中で、楽譜などに記述されることなく連綿と受け継がれてきたことは奇跡的であるともいえます。グリオは自分の楽器を自分で作ります。修理も自分でします。しかし、楽器を作るための材料すら買えない人も多く、その場合、演奏する時は持っている人から借りるしかありません。(プロの音楽家であるにもかかわらず、自前の楽器がないのです!) また、学校へ行っていないため読み書きのできないグリオも多く、そうなると著作権協会のメンバー登録や、旅行の際の書類申請など、すべて困難です。近代化、時代の流れに取り残され、貴重な能力や技術を持つ人々が時代の波に埋もれてしまうのは何とも残念です。先進諸国から様々の援助が行われていることも事実ですが、それが隅々まで行き渡るなどということは、夢のまた夢で、現実は厳しいです。私も微力ながら、何とか彼らの素晴らしい音楽文化の継承と発展に一役買いたいと切実に思います。オペラ制作のような、比較的大きな規模の長期にわたるプロジェクトを行い、出演者たちに対価をきちんと支払っていくことにより、経済的にもグリオを支えることができます。それは何も人助けということではなく、人類の一員として、価値あるものを大切に守り育てていくという義務だと思っています。
私たちのオペラの題名は、フランス語で「LÀ-BAS OU ICI...」といいます。直訳すると「あちら、またはこちら... 」となり、意味がよく分からない感じになってしまいますが、LÀ-BASは、いろいろな意味での壁や障壁、あるいは海などで隔てられた「あちら側の世界」を意味し、それに対して「こちら」は自分のいる場所ということになります。アフリカでは、欧米や日本などの先進国社会を指して「あちら側の世界」ということもよくあります。原作者で政治難民のモイ・ムボランゴンは、祖国・コンゴ共和国を逃れて4年以上ブルキナファソに住んでいます。彼にとっては、大切なお母さんを残してきた、帰ることの許されない祖国がLÀ-BASです。
モイ・ムボランゴン(ラッパー、マーシャル・パヌッチとしても知られている)www.martialpanucci.africaオペラというジャンルにアフリカのDNAが加わることは、世界の音楽ファンにとっても興味深いことではないでしょうか! このプロジェクトがアフリカの伝統の存続 –すなわちグリオの生き残り– に貢献すると同時に、その豊かな音楽性を世界の他の地域の人々にも知って、楽しんでいただくきっかけになればと思います。
ブルキナファソの音楽界では、アフリカの音楽の新たな可能性を拓くプロジェクトとして大きな関心が寄せられており、ブルキナの歌姫、マイ・リンガ二や、ブルキナの素晴らしい合唱団ヴォックス・クリスティ(Vox Christi)も今後、本オペラプロジェクトに参加することを熱望しています。
既にプロジェクトの最初の一歩、全四幕の内、第一幕を首都ワガドゥーグーで2021年4月に初演しました。その模様をオンラインで公開しております。(https://youtu.be/MZPtLy9LOh8)
また、BBCによってこのオペラプロジェクトが紹介され、ブルキナファソのみならず、世界的にも注目を集めています。(https://www.bbc.com/news/world-africa-57145383)
作品完成の折には、まずブルキナファソ各地で公演、そしてアフリカの他の国々へ、そして欧米、日本へも公演ツアーをするのが夢で、そのための準備を少しずつ進めています。
在ブルキナファソ日本大使館のTwitter記事でも紹介されています。 https://twitter.com/AMJBurkinaFaso?s=03 (@AMJBurkinaFaso)
合唱団ヴォックス・クリスティのメンバーたちと
2. プロジェクトをやろうと思った理由
2015年頃から、私はオペラの新しい可能性を探求するため、ヨーロッパを何度も訪れ、ネットワークを広げ、様々な人々と出会ってきました。そんな中、あるときベルリンで、建築家の展覧会のオープニングパーティーに行き、フランシス・ケレという、ブルキナファソ出身で世界的に知られた建築家と出会い、彼が将来、祖国にオペラハウスを作る可能性のある事を知りました。この出会いがきっかけで、それまで名前も知らなかったブルキナファソという国へ行くことになりました。
ブルキナファソはもともと観光で訪れる人は僅かでしたが、コロナの影響で、ブルキナファソ人が近隣諸国へ行って演奏する機会も次々とキャンセルされました。2020年前半のロックダウンの時には冠婚葬祭も禁止され、グリオたちは危うく餓える寸前でした。グリオは、先述しましたように、伝統の音楽・芸能を受け継ぐ家系の人たちで、日本の楽家や家元と似ています。ブルキナファソは多民族・多言語から成る国家で、各部族のグリオはもともと部族の族長に奉仕する形で、様々の儀式などの際に演奏していました。しかし、イスラム教やキリスト教が普及し、族長達の多くもそれらの宗教に改宗してしまい、演奏機会は急激に失われていきました。現在は、市民の冠婚葬祭や、新年や祝日などの門付けの演奏で細々と食い繋ぐ状況です。そうなると、以前はなかったことですが、彼らも子弟を学校へ行かせ、他の、もっと安定した職につかせようとします。当然の経緯と言えますが、そうなると次世代の音楽・芸能のレベルはどうしても下がって来ます。 一方でレゲエなどの音楽が流行り、グリオ以外の人々、そしてグリオの中にも、ギターやベース、キーボードといった外来の楽器を演奏する人が増えて来ました。音楽ジャンルもそういったモダン、従来のトラディショナル(伝統)、そしてそれらが混交したトラディモダンに分かれ、トラディモダンは伝統が形を変化させながら生き残っていく道として推奨され、期待され、注目されています。私たちの制作しているオペラは、まさしくこのトラディモダンに相当します。私は、彼らの伝統音楽をできる限り深く学び、そこへ私自身の身に付いた音楽(幼少時から学んだ西洋音楽や、その後に学んだ雅楽など)の要素を慎重に織り交ぜていく方針です。アフリカの伝統の価値を尊重したうえで、それをアーカイブ的に保存するのではなく、伝統自体が現代社会の、国際的な影響を受け、それなりに変化することこそ、伝統が活き活きと生き残っていく道であると信じるからです。

3. これまでの活動
私は、東京芸術大学在学中から作曲活動をはじめ、1995年に尾高賞という、NHK交響楽団の主催する、優れたオーケストラ 作品に与えられる賞を女性作曲家として初めて受賞しました。2000年には同賞を再受賞。2004年頃から約10年間、家族で結成した山下和仁ファミリークインテット(ギター五重奏団)のための作曲と公演を中心に活動しました。その後、作曲の中心は9歳の時からの夢だったオペラに移行しました。既に30歳の頃、二つのオペラを京都と東京で初演していましたが、2015年以降はオペラの新しい可能性を探求するため、ヨーロッパでネットワークを広げ、多くの指揮者、歌手、演出家たちに出会いました。そして2020年、ついにポーランドで、自分で脚本と作曲の両方を手掛けたオペラを初演しました。
2018年1月にベルリンで、フランシス・ケレに出会い、同年7月、まず三週間の現地調査のためブルキナファソを訪れ、主に彼の故郷・ガンドで人々と交流しました。翌2019年11月、プロジェクト開始のため再びブルキナファソへ向かい、2020年8月までの9ヶ月間、首都ワガドゥーグーに滞在。さらに同年10月から2021年6月までの8ヶ月間をワガドゥーグーで過ごし、以下の活動をしました。
2021年1月:オペラの中の5曲の歌をCDアルバムに録音して発売。その記念のコンサートをゲーテ・インスティテュート(ワガドゥーグー )で行う。
2021年4月:オペラ LÀ-BAS OU ICI... 第一幕をフランス文化研究所・ガーデンステージ(ワガドゥーグー)にて初演。

4. 主なメンバー紹介
マブドゥー・サヌー
ベンドレ、ジンベ、コーラ、ゴニ、タマニ、フルートなど数多くの楽器、そして歌と、なんでもこなす、われらがメインボーカル。37歳にして一家の家長として、母、多くの弟妹、親類縁者の面倒を見る、責任感の強い人。メンバーの中ではもっともフランス語の読み書きにすぐれ、ブルキナファソ人としては珍しく英語も話せます。作曲、編曲にも優れた才能があり、このオペラにも曲を提供しています。
イブラヒム・ババ ・デンベレ
メンバー最年少、29歳。 マブドゥーの甥っ子。アフリカのバイオリン、ドゥードゥガを弾く人は多くないので、希少価値で引っ張りだこ。お茶目でちゃっかりもの。自分のミスを笑い飛ばすのが得意の、憎めないキャラクター。両親と暮らしている家では、百羽ほどのハトを飼育しています。
ブレイマ・サヌー
マブドゥーのいとこで同い年。練習の鬼。一度も学校というものに通ったことはなく、読み書きは全然出来ません。メンバーの中でヨーロッパへ演奏に行った経験があるのは彼一人。とても優しい人ですが、頑固で保守的な一面もあります。どんなに暑い日にプールに誘っても、決して水に入ろうとはせず、プールサイドで見ています。彼のバラフォンの華麗なソロには、皆うっとりします。
エルベ・アンベール
フランス人。もともとは、自らの手でブロンズ像などを制作するのが本領のアーティスト。15年間ベルリンでアートの仕事をしてきました。近年映像への興味が増大し、ビデオ作品を制作しています。レジデンス・アーティストとしてブルキナファソに招かれていた期間に藤家と出会い、オペラプロジェクトに身を投じました。大の日本好きで、彼の「鴨川ソング」という作品は最近、京都の映画館で上映されました。ブルキナファソにもただならぬ愛着を覚え、最近土地を購入し、プル族風の家も建てました。オペラの舞台美術を担当、大スクリーンに映し出される映像は、すべて彼がブルキナファソで撮りためたものです。
5.今後の実施スケジュール
2021年9月後半 : リハーサル開始
2021年11月8日 : クラウドファンディング終了
2021年12月 :第二幕初演 フランス文化研究所 エキシビションホール / ワガドゥーグー
2022年1月 : 第二幕ストリーミング
2022年2月4日‣5日 :第三幕初演 Les Bambous(ル・バンブー)/ ボボ・ディウラッソ(ブルキナファソ 第二の文化都市)
2022年2月 : 第三幕ストリーミング、オンライン意見交換会、リターンの織物製作
2022年6月 : 第四幕初演 フランス文化研究所 大ホール / ワガドゥーグー
2023年1月 : 全幕完成版初演 会場未定
6.集まった資金の使い道
今回サポートいただいた資金は、上記の「5. 今後の実施スケジュール」のうちの2022年2月4日‣5日 に実施予定の第三幕初演 於 Les Bambous(ル・バンブー)/ ボボ・ディウラッソ にかかる経費として使わせていただく予定です。Les Bambousは、ブルキナファソで首都ワガドゥーグーに次ぐ文化都市・ボボ・ディウラッソの芸術活動の拠点として、尊敬され、愛されているスペースです。一度は閉鎖に追い込まれましたが、2018年に現地の人の渾身の努力で再開され、一切の援助を受けられないままに自力で運営されています。ここで公演することは、アフリカ独自のオペラを目指す私たちにとって大きな意義があります。Les Bambousは上記のような状況から、出演料として、いかなるグループに対しても25000CFA(約5000円)しか支払うことができません。そこで、この公演に関して皆様のご支援をお願いしたいのです。
① 2022年2月の第三幕初演にかかる経費とその内訳
1.制作費(脚本料、作曲料、舞台美術費など):15万円
2.人件費(出演料、音響スタッフなど):25万円
3.その他経費* **(宣伝費、出演者移動費、宿泊費、音響機材レンタル費など):20万円
*CAMPFIRE手数料12%+別途決済手数料5%(+ 税)を集まった支援総額から支払う必要があるため、その金額を含む。
** 会場費は、公演先(Les Bambous)が提供してくれるので含まれない。
② 一般的に、オペラにかかる経費とその内訳
条件や規模によってさまざまなので一概にはいえません。が、どんなに小規模の、出演者の数の少ない室内オペラでも、日本でしたら数百万円はかかります。純然たる制作費(演出家の演出料、舞台美術費、衣装費、出演料など) に加え、会場費や宣伝費、出演者の移動費はもちろんのこと、長いリハーサル期間中の諸経費もかかるからです。新しい作品の場合、本来ならば脚本料、作曲料を支払う必要があります。出演料の高い歌手や、指揮者、また豪華な衣装やセット、大勢のコーラスが出演する場合などは数千万円か、それ以上という場合も珍しくはないでしょう。

③ご支援の総額が目標額を上回った場合は、古くなった太鼓の皮の張替え、新しく楽器を製作する費用などに充てさせていただきます。
7.リターンについて
シンプルにご支援くださる場合、1000円以上のおいくらでも結構ですので(例えば 1200円、2800円、10500円等々)どうぞよろしくお願いします。差し支えなければ、ストリーミングの際のクレジット画面に「Special Thanks to ~」の形でお名前を掲載させていただきます。
複数項目へのご支援は、もちろん大歓迎です。
3000円のご支援 : 各月末に計5回 プロジェクト進捗、および結果のご報告レター (2021年10、11、12月、2022年1、2月)を送らせていただきます。
5000円のご支援 : プロジェクトメンバーとのオンライン意見交換会参加券 日本語・英語・フランス語 各限定5名様*
*インスタグラム(https://www.instagram.com/labas_ouici) で、ブルキナファソの庶民生活を、私の同居家族の日常を中心に紹介しております。また、HP (http://www.labasouici.net) にもオペラ制作の裏話などを書いています。よろしければ、それらに記載しているような、オペラや音楽だけでなく、脱成長であるとか、持続可能な社会、人生観や教育観、西洋主義や近代化について、アフリカのメンバーやフランス人メンバーと共にディスカッション 、試行錯誤、自問自答を繰り返しながら制作しているプロセスを共有していただき、広いテーマについて語り合える場を作ろうと計画しています。
7000円のご支援 : グリオが芸能の傍ら家業としている機織りによって製作された織物 A - ストールを、製作者の写真とお礼の手紙付きでお送りいたします。 164cm×23cm ブルキナファソ産の綿100% ボアバ族の伝統柄。
15000円のご支援 : プロジェクトの核となっているバンド、SABABOU KADI KEIKOの初CDアルバムをバンドメンバー全員のサイン入りで差し上げます。録音、マスタリング、カバーデザインなどすべて、MADE in BURKINA FASOにこだわったアルバムです! 収録曲はオペラの中から、祖国に残してきた、今は会えないお母さんへの手紙を歌詞にした5曲。主な歌詞はフランス語ですが、現地語であるボアモ語、デュラ語、そして何と日本語で歌われるところもあります!
30000円のご支援 : 2022年中のあなたのお誕生日に、グリオたちがお祝いの歌を演奏して、その録画をオンラインでお届けします。歌詞にはあなたのお名前を入れて歌わせていただきます!
50000円のご支援 : グリオが芸能の傍ら家業としている機織りによって製作された織物 B - 壁掛け、あるいはソファカバー用を、製作者の写真とお礼の手紙付きでお送りいたします。約185cm×234cm ブルキナファソ産の綿100%
70000円のご支援 : グリオが芸能の傍ら家業としている機織りによって製作された織物 C - 壁掛け、あるいはソファカバー用を、製作者の写真とお礼の手紙付きでお送りいたします。約185cm×234cm ブルキナファソ産の綿100% 柄を織り込んだ、よりいっそう手間のかかった品物です。
最後に
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。拙い文章でどこまでお伝え出来たか不安ですが、もし、このプロジェクトにご興味を持っていただけたら、本当に嬉しいです。専用ホームページ (http://www.labasouici.net) やインスタグラム(https://www.instagram.com/labas_ouici) などでも、詳しい内容や、日々の生活ぶりをご紹介しております。どうぞご覧ください。
ブルキナファソの人々にとって、日本は遠い遠い憧れの国。敗戦から立ち直り、驚異のテクノロジーを発展させた国というイメージで、とても尊敬されています。そして、先祖を敬う習慣や、太鼓が好きなこと、個人主義的でなく和を尊ぶことなどに、彼らは心底共感を覚えます。
どうぞ私たちのオペラプロジェクトチームの一員となって、アフリカ独自のオペラの誕生へのプロセスに立ち会い、プロジェクトの経済面を支援していただき、オペラ完成まで歩みを共にしてくださいませんか?
いつか必ず、日本での公演を実現させたいというのがメンバー全員の夢です。
応援メッセージ
エチオピアUNESCO所長
横関祐見子様アフリカの物語がブルキナファソの人々と日本、そしてヨーロッパ諸国との協働でアフリカ独自のオペラになると聞いた時、期待でドキドキしました。西アフリカの吟遊詩人とも言えるグリオールの人達の紡ぎだす素朴で美しい音とリズム、新しいオペラの誕生です。今年5月に公開された第一幕を聴いて何故か涙がこぼれました。世界がコロナ・パンデミックと戦う中で、こんな素晴らしい音楽を実現させる藤家溪子さんの類まれな才能と情熱にエールを送ります。
ヨーロッパ連合ブルキナファソ大使夫人 Alexandra Vetter様
日本とブルキナファソの音楽の実験 - それは夢のような冒険です! そしてそれこそが藤家溪子さんが彼女の作品で表現しているものなのです。 彼女のオペラプロジェクトは、異文化の壁を超える、素晴らしい旅路です。 その音楽は、典型的なアフリカの吟遊詩人たちのように、日本、ブルキナファソ、そしてその他のアフリカの音楽の伝統の要素を併せ持ち、提示しています。
2021年4月23日にワガドゥグーのフランス文化研究所で行われたオペラ第一幕初演は、素晴らしいイベントでした。 私は、彼女とバンドのメンバーを21年3月12日に私の企画した美術展に招待して演奏してもらったことを、あらためて光栄に思いました。彼女らのおかげで、その夜はとても特別なものになったのです。
最後になりましたが、藤家溪子さんは素晴らしいピアニストです。 私たちは21年6月18日のイベントで彼女と一緒にバッハのバイオリン協奏曲を演奏しました。ブルキナファソの伝統を汲む音楽と、ヨーロッパのクラシック音楽との出会いを構成したイベントでした。
皆様、どうぞこのオペラプロジェクトに、今後たくさんのご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
<募集方式について>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンを実施いたします。
最新の活動報告
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ブルキナファソ・お金の話
2025/08/23 20:588月5日の万博でのコンサートの模様今回の投稿はお金に関する話です。皆様とはご支援という浄財を通してのご縁がありましたので、この国におけるお金のあり方の一端をご紹介させていただきたいと思い立ちました。ブルキナファソは多民族・多言語社会で、以前公用語だったフランス語を含めて様々な言語が話される、いわば言語のるつぼです。その中で一つ不思議なのが、お金の数え方です。未だに、事実上フランスが発行するCFA(フランセーファ)が通貨として使われていますが、例えば1,000CFAを地元各種言語では 200と呼ぶのです。25CFAは5、5,000CFAは1,000、というように常に5で割って呼ばねばなりません。これは何故かというかというと、一番小さい貨幣が5セントだからだそうです。1セントのコインは存在しないので、5セントを1と数えざるを得ないそうです。ともかく、今でこそ慣れましたが、初期の頃はよく頭が混乱しました。私は買い物の時にもなるべく現地語を使うようにしていますが、実はCFAだと感覚的にむしろしっくりくるのです。紅茶1杯が100CFA、ランチセット(汁物、ご飯、水)が300~500CFA、アボカド・サンドイッチが100~150CFAというように。実際に円換算するためにはこの数字を4で割るのですが、そうすると現地の数え方に近い数字になります。(ブルキナファソへ来た頃はユーロが今ほど強くなかったので、5で割ればほぼぴったりでした)そういえば、この前、日本へ出発する直前にある音楽フェスに参加したときのバンド全体のギャラが40,000CFAでした。この時、10,000CFAを出発直前に空港前喫茶店で行う予定だった私の誕生日祝いのために取り除けておいて、残りの30,000CFAを6人で割りましたので、1人あたりの取り分は5,000CFAでした。円換算すると1,250円ですが、ワガドゥグにいれば日本における5,000円相当くらいの価値はあります。さて、今回の万博公演は純粋なボランティアで、1円のギャラも支払われませんでしたが、日当1日11000円✕6日、および宿泊費25000円✕5泊分が各人に支給されました。実際に泊まった宿はもっと安いところで、(後で知ったのですが)差額は返さなくてよかったのです。日当は、もちろん食事や交通費として支給されたのですが、途中から貨幣価値に気付いたバンドメンバーたちが、可能な限り自炊をして節約に努めたことは想像に難くないでしょう?といっても、最初の宿に付いていたキッチンはIH式でしたから、普段は炭か、せいぜいガスボンベで調理している彼らにはなかなか火加減が難しく、結局調理は私か、日本人ダンサーの吉田さんが主にやりました。それやこれやで一生懸命節約したお金を関西空港でブルキナファソへ送金し、ワガドゥグへ戻った時には現地通貨で引き出せるようにしておきました。その金額は5人分合わせて約150万CFA。つまりワガドゥグでは150万円ほどの価値がある金額です。それが証拠に、銀行ATMでの1日の引出し限度額は100万CFAですので、2日に分けて引き出さねばなりませんでした。注目していただきたいのはこの後の経緯です。つまり、一人当たり平均30万の現金を手にしたというのに、10日経った頃には、それらは跡形もなく消えたと言うのです、それも一人を除いて全員が!皆さんは、彼らが山のような借金を清算したとか、喜びのあまり、バイクか何かの大きな買い物をしたとか、そんな想像をなさるかもしれません。でも、違うのです。日本のような先進国へ行ったからには、相当なお金を持ち帰ったに違いないという勝手な想像で、毎日毎晩、近隣やワガドゥグのあちらこちらからは無論のこと、遠い村からまでも噂を聞きつけて多くの人々がお金を無心してくる、あるいは奢ってくれと迫る…などなどの連続で、お金は瞬く間に無くなったというのです。実はこれは十分に予測された事態なので、ヤクバは到着の翌朝早く、壊れていたバイクのエンジンを買い変え、マブドゥはこの先2ヶ月分の米袋を買いに行ったりと、それぞれ必要最低限の自衛はしていました。それにしても、無心されたらお金を渡さなければならないという感覚が、ちょっと理解し難いかもしれませんが、それがこの社会の実態なのです。私もブルキナファソへ来て長いので、分かっていたつもりでしたが、それにしても30万CFAが瞬く間に消えてしまうとはあらためて呆れました。ところがバンドメンバーがいうには、この件で私は「女を上げた」(通常は男、ですが)というのです。人々はこの経緯で私のことを今までにも増して尊敬しているのだとか…。つまり自分たちのところにお金が流れてきた、その川上にいる存在として私を有難がるという意味なのでしょう。そういえば、私が1年4ヶ月もワガドゥグへ帰ってこなかった間、心無い人々は「彼女はもう二度と帰ってこないつもりなんだ。マブドゥたちはナサラ(白人)と一緒にいて良い気になっていたけど、結局は相手にしてみれば大した金額でもないのに、自分たちにとっては大金を支払ってもらっていると喜んで一緒に仕事していたけど、見捨てられたのさ」と噂していたそうです。まぁ、噂好きな人々が勝手なことをいうのは、どこの国にもあることですから、目くじらを立てても始まりません。ちなみに、もう一つ驚いたことは、1年4ヶ月ぶりに帰宅してみると、居候が4人も増えていたことでした。正確にはマブドゥの家に3人、隣家のヤクバの家に1人ですが、隣家といっても境界はなく、トイレ兼風呂場は我が家(マブドゥの家)のを使っているのですから、感覚的には一つの家です。居候が1CFAもお金を入れないで居続けるのに苦情も言えない、あるいは言う気もない、というのがまた理解し難いところですが、まぁ、それでも持ちこたえていける自分の状態を天に感謝する、という気持ちといいますか、そのような意識で過ごしているとしか思えません。確かにそういう考え方は美しいし、私もそう考えることにしています。でも、やはり時々不条理を感じることがあります。今まで、一番こたえたのは、私の留守中にマブドゥがバイクを人に貸して、その人が大事故を起こし(衝突事故で、相手は即死したそうです)、バイクが大破損した上、2ヶ月も警察に押収されたままになったときでした。私はベルリンでその報せを受け取りましたが、マブドゥの説明は私にとっては支離滅裂で「もしそのバイクに乗っていたのが自分だったと考えると非常に怖ろしく、身代りに事故に遭った従兄がどうか死なないように祈るばかりだ」というような内容でした。その人は私にとってはほとんど見知らぬ人でしたが、マブドゥにとっては従兄なので動揺していたのはわかりますが、バイクは彼と私が共有しているもので、もちろん買ったのは私でした。オペラプロジェクトのために街中のあちこちへ行く必要がありましたから、その度に他人のバイクを借りるわけには行かないし、その後マブドゥが兄から譲られたバイクに乗っていた時期もありましたが、ボロのバイクだとしょっちゅう不具合が起きて、修理しているうちに約束の時間に大幅に遅刻してしまうこともあったので、一念発起してヤマハのオリジナルバイクを買ったのです。これには、家を建てた時よりも高いお金がかかりました。ヤマハのバイクをこちらで買うと、フランスの課す関税のせいで日本で買うよりも高いのです。だんだんにわかったことですが、その事故は早朝に起こり、双方がスピード違反を犯していたそうです。幸いマブドゥの従兄はわりと早く回復し、亡くなった相手の遺族も訴えないという決断をしたので、マブドゥはホッとしたようでした。私が納得できなかったのは、マブドゥからも事故った本人からもきちんとした謝罪がなかったこと、そして当然のように修理費は私がもつと思っているかのような態度でした。「次からは保証のあるバイクを買ったほうがいい」と、ベルリンから戻った私にマブドゥが告げた時、内心怒りが込み上げました。当時の私にとっては、バイク代は本当に大金でしたし、次のバイクなんて買う余裕はなかったのです。自分よりは遥かに金持ちだと私のことを考えているのでしょうが、勝手にバイクを貸して、それが壊れたのになぜ私が次のバイクを買わなくてはならないのでしょうか?内心は彼もビビっていたのでしょうが、ビビった時ほど強気に出るという変な癖が当時の彼にはありました。でも私もこんな理不尽な話があるものかと憮然としていましたので、案の定大喧嘩になりました。当時、ワガドゥグを訪ねてきていたマブドゥの一番親しい従弟で警察官のバキスが、片言の英語で一生懸命取りなそうとしてくれましたが、理解し合うのは難かしく、私はバイクが事故を起こしたのではなく、早朝からスピード違反で走らせたドライバーが事故を起こしたのだから、断じて身代わりの犠牲などではないと一歩も譲りませんでした。バキスだって何もそんなマブドゥの考え方を支持していたわけではなかったと思います。結局バキスが、当時臨月だった彼の奥さんのバイクをワガドゥグにおいて行くから、警察からバイクが戻ってきて修理が完了するまで使うようにと申し出てくれました。このありがたい申し出により、次のバイクを買う云々の話はしなくて済むようになりましたが、結局バイクはどんなに八方手を尽くして頼んでもなかなか返してもらえず、2か月後にようやく返してもらい、修理に出しました。この時、私が136,000CFA、マブドゥが66,500CFA、事故った本人は10,000CFAを支払い、バイクは何とか再び走行できる状態に戻すことができました。日本円にして5万円強ですが、壊れたときの無惨な写真を見た日本の知人が「買い替えた方が良い」と即座に言ったことを思えば、案外安価で修理出来たと考えるべきかもしれません。しかしご想像に難くないでしょうけれども、その後事故った本人は1CFAたりとも(5CFAたりとも、というべきですが)補償しに来ません。私は数回、マブドゥを通じて毎月1,000CFAずつでも返すように言いました。自分で直接言いたいのは山々でしたが、そこはグッとこらえて、西アフリカ式に仲介人(マブドゥ)を立てたのです。しかしながら、あれこれの言い訳で、そのうち払いますという返事が間接的に伝えられるだけで、3年近くが経過していますが、何も起こりません。遂に私は、万博公演から帰って来て、最初のバンドのミーティングでこのことを問題提起したのです。それは、マブドゥが日本で行ったワークショップの謝金を受け取ったら新しいバイクを買い、今のバイクは妻に譲ると私に話したからです。これは単にアイデアとして話しただけですが、私の心にくすぶっていた割り切れぬ思いが、再び頭をもたげました。1週間ほど経ってから、私は「賛成しかねる」とはっきりマブドゥに伝えました。まだ損害賠償を受けていないバイクを、たとえ妻であっても譲るのは賛成できない。もしも新しいバイクを買って、今のバイクが不要だというのなら、それを売って修理費を穴埋めすべきだ、と。これが理に適っているかどうかは、自分でも半信半疑でした。中古バイクはどんなに状態が良くても、250,000CFAで売れればラッキーですから、ちょうど初期の修理費に相当するくらいにしかなりません。それよりも、我が家に2台のバイクがある方が何かと便利だとマブドゥは考えたのでしょう。しかし、1台だろうが、2台だろうが、ここの風習では誰かが貸してくれと頼んでくれば貸さざるを得なくて、借りた挙句に使ったガソリンすら補填しない人も大勢いますし、挙句に自分で買わない(買えない)人々に限って使い方は荒く、しばしば故障して戻ってきます。その修理代も全てこっち持ちですから、たまったものではありません。いかに「郷に入れば郷に従え」と言われても、限界があります。今回も日本滞在を終えて帰ってみると、誰が使ったのか、バイクのブレーキがおかしくなっていました!こんな状況で、2台のバイクの面倒を見るなんて私は真っ平なのです。マブドゥとはこの5年余りの間、何度か激しくぶつかりましたが、「雨降って地固まる」というように、より深い信頼と相互理解を築いて来たと信じています。しかしこの一件は未だに未解決なのです。そこで遂にバンド全体の意見を求めました。驚いたことに、これまで誰も私に告げていませんでしたが、事故った人は、その後第二の事故を起こしていたのです。それに加えて、(これはバンドのミーティングに先駆けてマブドゥ自らが私に話したのですが)、マブドゥもかつて(私に出逢う前に)大事故を起こして2週間ほど入院しましたが、その時真っ二つに壊れて修理不能になった(人から借りた)バイクに関して、1CFAも補償しておらず、何故かと問うと「持ち主が全く要求してこないから」と答えるのです。彼にとっては、自分もかつて他人を同じ目に遭わせたから、自分もそういう目に遭っても仕方がないということなのでしょうか?私は、バンドの皆が日本まで行って、単にボランティアとして万博公演を行っただけで、何のお金も稼ぐことが出来ずにワガドゥグへ戻るなどということにならないように、日本で1年以上も全力を尽くして画策しました。労働ビザが発給されるケースではなかったのですから、合法的に彼らに何らかの収入を得させるためには、どうしたら良いのか、それを考え、実現するのは本当に難しい課題でした。マブドゥは他のメンバーの数倍働いて、私の片腕としてプロジェクトを支えて来たのですから、彼には特に報いたいと思ってきました。彼には9月に、相当の支払いをする準備をしていますが、彼はそのお金を手にしても、以前壊した他人のバイクの補償をするつもりはなく、自分に新しいバイクを買って、また無責任な他人に貸し出して、もしかしたらまた誰かがそれを傷つけて、心ならずもその「つけ」を私に回すことになるのでしょうか?交通事故が異常なまでに多発するワガドゥグで、このような心配をするのは当然のことです。このバイクをめぐる一件は、私がブルキナファソを身をもって理解するための最後のハードル、あるいは通過儀礼なのでしょうか?お金とは、結局何なのか?水のように常に循環して全ての人を潤すのがお金のあるべき姿なのかもしれません。貸し借りを厳しく追及すべきではなく、無いときは悪びれず貰って、入ったときは紀伊国屋文左衛門よろしく、ぱーっとばら撒くのが人徳なのでしょうか…。マブドゥが故郷へ帰って留守の間、ヤクバやラミッサ、他の友人たちと中国茶のお茶会をしながら、私はぼんやり考え続けていました。その夜、故郷のヌナから遊びに来ているマブドゥの姪っ子の一歳半の息子の、すさまじい叫び声で目が覚めました。ひきつけというのでしょうか?呼吸困難のようになってしまっていて大騒ぎになり、その子どもは病院へ連れていかれました。翌朝早く、バンドのバラフォニストのブレイマが「マブドゥから電話があり、10,000CFAを病院へ持っていかねばならないと言っている」と私に告げに来ました。それは10,000CFAを私に払ってくれと頼んでいるのか、それとも貸してくれということなのか、それとも彼はそのお金を既に送金していて、それを引き出して払いに行けということなのか、ブレイマは一向にちゃんと説明しません。ただただ「10,000CFAを病院へ持っていかねばならない」と大声で繰り返すばかりです。後で、ヌナから急遽引き返してきたマブドゥに聞くと、彼はブレイマにお金を出してくれるように頼んだのであって、私に出させるつもりはなかったから、私に電話しなかったというのです。ブレイマ唯一人が日本から持ち帰ったお金を死守していることを、皆知っていました。けれどもブレイマはお金を出したくないので、私に「10,000CFAを病院へ持っていかねばならない」と伝えに来たのです。そう伝えれば、私が何とかすると思ったのでしょう。ブレイマは病院へ見舞いには行きたいけれどガソリン代がないから支払ってくれとヤクバに頼んだらしく、ヤクバは呆れてそれを断りました。朝の時点では、ブレイマと話してもらちが明かないし、マブドゥの到着は午後3時ころだと聞きましたので、とりあえず20,000CFAを持ってヤクバと病院へ向かいました。こちらの病院の常ですが、次から次へと処方箋を出して、病人の家族を薬局へ行かせてそれらの薬を購入させ、それを使って治療するのです。しかも看護師という存在がいませんので、病人の家族が交替で付き添い、夜も寝泊まりしなければなりません。庶民は保険などにもほとんど加入していませんから、病院にかかるとその出費は途方もない金額になります。昨夜は、戻ってきたばかりのマブドゥがさっそく夜の付き添いをしましたが、子どもの母親のみが病室での付き添いを許され、彼は外のテラスで蚊の猛攻撃に悩まされながら眠ったそうです。今、子どもはすっかり元気を取り戻しているそうですが、かと言ってなかなか退院はさせてもらえません。すでに20,000CFAはほぼ使い果たされています。マブドゥは数日前にヌナですっからかんになって、早くも私に借金を申し込んでいたくらいですから、病院への行き帰りのガソリン代すら、その借金から工面しているのです。これが日本から戻って、たった二週間後の実態なのです。「お金を持っていない」ということはある意味強みですらあり、持っていなくても結婚はする、子どもは産む、病院にもかかる、必要と考えれば何でもするのであり、その代金は誰かが支払ってくれる...支払うだけの力がある人が支払うのだから、別にありがとうすら言わないことも珍しくはなく、時に「神があなたに長寿を授けますように」というような常套句を言われるのみで終わりです。病院からいったん家へ戻る途中で、マブドゥがバイクの後ろの私に「またあなたに借金を作っちゃったね」と溜息交じりに声をかけた横を、かつて私たちのバイクで事故を起こしたマブドゥの従兄が(また誰かに借りたバイクの後ろに)息子を乗せて「やあ!元気?」と満面の笑みで笑いかけながら、追い越していきました。 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万博公演を終えて②
2025/08/16 23:09通常、2時間もかかるオペラの舞台の仕込みは遅くとも前日から始めなくてはなりません。ブルキナファソでの過去の公演でも3日間会場を借りて仕込みをし、リハーサルを重ねてから公演してきました。ところが今回の万博公演では、当日の午前中に式典があり、それが終了するのが12:00、その後の1時間はホールスタッフの休憩時間、13:00から仕込みという有り得ない状況でした。しかもオペラの開演時間は16:00。当初それを何とか17:00にしてもらおうとお願いしました。ブルキナファソ政府の万博担当官も懸命に交渉してくれましたが、18:00からレセプション(ビュッフェ式晩餐会)があるから絶対に駄目だと万博事務局から断られました。そのため、まさにアクロバット的な迅速さと正確さで作業しなければならない羽目になりました。この無理やりな条件を突き付けられた我がオペラチームのテクニカルスタッフ達の献身的な働きと能力の高さがなければ、この離れ業は実現しなかったでしょう。とはいえ、日本人、ドイツ人、デンマーク人、台湾人、という混交チームで、出演者たち(ブルキナファソ人)との言語の壁もありましたし、70名近い小学生たちも5つの場面に出演したのですから、非常に難しい状況でした。いろいろなハプニングもありましたが、あれだけの厳しい条件のもとで、なかなか良い公演が出来たのではと自負しています。ともあれ、予定時間通りに公演を終えた私たちは、1時間余りレセプションに出席したあと、撤収作業を終えるために再びホールへ向かいました。規則では21:00までに完全撤収すれば良かったのですが、翌日はウクライナのナショナルデーで、彼らが仕込みをなるべく早く始めたいと言っているので出来れば早めに撤収してほしいと万博事務局から言われていたのです。レセプションへ向かう前にステージはほぼ空にしてあったので、私たちが戻ったとき、ウクライナチームは既にステージの仕込みを始めていました。黙々と働く大勢のウクライナ人たちを見ながら、戦争の最中にありながら、こうして文化事業にお金を掛けられるのは、彼らの文化への意気込みなのかという疑問が浮かびました。実際にどれほど複雑な準備を要する文化イベントをウクライナが行ったのか知りませんし、もしかしたらセキュリティなどの別の理由で準備を周到にしたかったのかもしれません。ともあれ、前夜からホールを借りるためには別途、相当のお金を支払わねばならず、私も実はそうしたかったのですが、それは到底無理なことでした。私の呟いた疑問に「本来、国(ブルキナファソ)がやるべきところを、あなたは個人でやっているのだから仕方がないよ。ウクライナはきっと国が払っているんでしょう」とテクニカルスタッフのひとりが返しました。確かにそうなのでしょう。それにしても、私が個人でこんなことを背負い込んだのは、何もブルキナファソへの愛のためなんかではありません。縁あってブルキナファソへ行ったわけですが、今回の万博公演は私の芸術家としての使命の一環として行っているのであって、特定の人や特定の国家のためにしているわけでは決してありません。でも、それはなかなか理解してもらえず、様々に誤解されやすいのは仕方がないのですが、私の経済状況を心配してくれた身近な人々から「(そんなに頑張らなくても)万博に出演することで、バンドのブルキナファソ人たちも箔が付くのだし、そのうえ少しのギャラでも貰って帰れば喜ぶんじゃないの?」と言われたときは、さすがにショックでした。悪気なく言ったのだと思いますが、こういう発言は最も差別的な「上から目線」で、私からすると本来、許し難いものなのです。でも、もしかしたらバンドメンバーたちの中にも「そうだよ」とあっさり同意する人もいるかもしれませんから、一概に否定することも出来ませんでした。この発言は、私がまだ大学院生だった頃にドイツへ行ったとき、ドイツのラジオ局が私の作品を放送するという話を聞いたあるドイツ人に「自分の曲がドイツで放送されるなんて、あなたはさぞかし名誉に感じるでしょう」とあけすけに言われたときの違和感をそのまま蘇らせました。その時感じた不快感は40年経った今も忘れません。でもこれは根の深い問題に違いありません。芸術活動も「自由主義経済」の支配する世の中にあって、ブランディングだの、パブリシティだのといった「消費者」へのアピールの必要性と無縁でいることは難しいからです。「芸術は消費の対象などではない」などと正論を振り回しても始まらないのが現実で、アーティストたちも皆、あの手この手の自己宣伝に大忙し、結局は「売れたもの勝ち」の世の中だという考え、そして「いかにも(すでに)売れているように見せかける」手法を競ってでもいるかのような印象を視聴者(あるいは「消費者」?)に抱かせるSNS投稿やプロフィールの作り方...そういうものを見慣れている人々から「箔が付いて嬉しかろう」などと侮られるのも、ある意味では仕方のないことです。今回の私のように、単に作曲家や出演者ではなく「プロデュース」をする立場であると、より直接的にお金の問題に巻き込まれますので、自分のプロジェクトのブランディングはより切実な問題になります。「より多くのお金をどこかから持って来られないのは無能の証拠」とあからさまに批判を受け、挙句の果てには「作曲家なんぞにそんな能力のあるはずもないのだから、誰かに委託するべきだ」「有能なマネージャーを雇うべきだ」「お金が余りまくっている助成金もあるのになぜ応募しないのか」「クラウドファンディングで数日で大金を集めた人もいる。あなたはやり方が悪いのではないか」等々、まぁ本当に言いたい放題の「ご忠告」を山ほど受けました。確かに結局合同会社まで起こさざるを得ない羽目になりました。初めてそういう立場でお金を扱う立場になってみると、今まで見えていなかったことが見えてくるのも事実です。クラウドファンディングにしても実際にやってみなければわからないこともいろいろありました。でも、そんなさまざまの経験を経た今も、変わらず思うのは、「自由」というものはかけがえのない、大切なものだということ。そして、その自由を守り抜くことは、実に「高く付く」ということです。芸術家として本当に自由に制作するためには、限りなく「自由個人」として在ることが大切なのです。金策に駆けずり回って、ついぞ作品に集中することのできなかったこの1年半を振り返ると本当に辛いですが、それ以前の、何の縛りもなく、何かのプログラムの一員でもない状態で、完全に自腹でブルキナファソへ渡って自由に過ごした数年間があったからこそ、ある程度納得のいく形でこのオペラが制作できたと思っています。8月4日夜、万博会場を後にしてホテルへ戻るバスの中で、「あなたは今日の結果に満足したの?」と友人の台湾人作曲家が私に訊ねました。(彼女は今回の公演で字幕のプロジェクションを手伝ってくれました)私は啞然として答えに窮しました。ちょっと待ってよ、そんなに急かさないでよ。ある程度の手応えはあったといえども、終演直後というのは、細かいミスなどが大変気になるものです。そしてまた、自分の気付いたことなどはきっとほんの一部に過ぎず、会場で起こっていたことのすべて、私たちはいったい何ができたのか、そして何ができなかったのか...観てくれた人々に何が伝わったのか。それらはなかなかわからないことですし、これから私の人生がまだ続いていくとしたら、その中でふとした瞬間に何かがわかることもあるかもしれません。もちろん、すぐにフィードバックを書き送ってくれる人々もいるけれど、彼らだってすべてを言い尽くしているはずはないですから。公式配信、私を含めた各人がSNSに投稿する写真やビデオに対するフィードバックも次々とあるでしょうけれども、公演以来自分の心の奥底でうごめく感覚を、まずはじっくり捉えて、それを理解することに務めたいと思います。「人からどう見えるか」ばかりを気にして、「人の評価」ばかりを気にして、フォロワーの数や高評価の数、再生回数を気にして、自らの芸術をそんなもので査定するようになってしまっては、もはやシステムの奴隷、自由主義経済という名を騙る多国籍企業の巨大勢力の掌で踊る駒にすぎません。さて、万博で公演したことは私たちのプロジェクトに箔を付けたのでしょうか?いいえ、「万博」という催し自体に最初からステータスがあるのではありません。多くの人々の反対を押し切って開幕した今回の「万博」にステータスを与えられるかどうかは、ひとつひとつのイベントの内容、一人一人の参加者の心意気にかかっています。戦火の消えることのない世界、深刻な環境破壊が止められていない状況、その中で開催された大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」です。このテーマは、多様ないのちの尊重と一人ひとりが輝く未来を追求することを掲げています。経済だけでなく、環境・人権・教育・健康など多方面から持続可能な社会の実現を目指して。万博におけるひとつひとつの催しは、このテーマにどれほど貢献したのか...その審判を受けるのにもまた、一定の時が必要でしょう。 もっと見る
万博公演を終えて①
2025/08/14 20:57万博公演動画上記をクリックしていただくと、万博がアップロードしているオペラ公演動画をご覧になっていただけます。波乱万丈の日本旅行・万博公演が終わり、ワガドゥグへ戻って1週間目。残務処理やら何やらに追われて休む暇もない有様です。でも、あまり遅くなりすぎないうちにご報告をさせていただきたいと存じます。オペラ・プロジェクトを開始してから5年半が経過しようとしています。万博での公演は決して私の目標でもゴールでもありませんでした。私の目標は興味のあるオペラというジャンルに西アフリカの強力なDNAを加え、全く新しい様式のオペラを作ること。そしてそれは同時に、グローバリズムと、文化さえも観光資源として売りに出そうという各国政府の振舞い、「ONE WORLD、ONE PLANET」を謳いながらも各国の文化をブランディングしたがる傾向…そんな全てに大いなる疑問を呈示するための取り組みでもありました。そして、強大な勢力にコントロールされているメディア、溢れんばかりの情報の洪水に溺れ、何でも知ることが出来ると容易に錯覚しかねない状況で、実は重要な事実でも全く報道されていないことがままあるという現実。ブルキナファソで暮らすうちに、この現実を否応なく突き付けられ、その中で芸術に携わる者として今、何をしなければならないのかを考え続けてきました。万博で公演することは、そういった、現状を牛耳る勢力の企画する祭典の真只中で、芸術の力によって、この世の有様に対する大いなる批判と疑問を突き付ける絶好の機会だと思いました。しかし、当然ながらそれは決して簡単なことではありませんでした。ブルキナファソは今回の万博に途上国支援の対象として参加しました。出演者、音響や映像のスタッフを含む10名が万博に招待されましたが、オペラ公演はあくまでもボランティア公演としての位置付けでしたので、入場料を取ることはもちろん出来ませんでしたし、公演したナショナルデーホールに備わっている設備以外に必要なものは全て自力で用意しなければなりませんでした。ところが今なおテロリストとの戦いに明け暮れるブルキナファソ政府からは1円の支援も受けられず、(個人にとっては)かなり莫大な費用を自力で準備するために2024年2月末から2025年4月末まで日本へ帰りました。が、円安などの状況でスポンサーを得ることも難しく、全ての当てははずれ、8ヶ月が経過した時点でほとんど何の成果も得られず、途方に暮れました。10月のある日、内閣官房事業・万博国際交流プログラムというものの存在を教えてくれた人がいて、その時点でもう応募が締め切られているかも知れないと言いながらも、情報リンクを送ってくれました。実際、その時点でこの事業は第九次募集を受け付けていました。しかしこれは、私が自分で申し込めるものではなく、全国の地方自治体が万博参加国の一つを選び、その国との交流を深める事業のために登録申請をするものでした。私は奈良県橿原市を含む5つの地方自治体に登録申請をお願いしましたが、人が足りなくて余計な業務を増やしたくないという理由で4つの自治体から断られ、橿原市だけが受け入れてくれました。2025年が始まる頃にようやく令和6年度事業をスタートさせましたが、まだほとんど活動らしい活動も始めていないのに膨大な書類作業に追われるばかりで、こんな調子では令和7年度はいったいどうなってしまうのだろうと頭を抱えました。結局、会社を設立して橿原市から委託を受けて事業を進めるしか道はないと悟り、大学時代の同期生の助力を得て合同会社を立ち上げました。いち早くワガドゥグへ戻ってリハーサルを始めたいのは山々でしたが、資金が用意出来なくては万博公演は実現しませんから、帰るに帰れず、滞在は長引くばかり。この間実家からも「いつまで滞在するやらきちんと頼みもしない」と嫌味を言われて、居辛さのあまり、急遽三重県熊野市に部屋を借りて移り住みました。膨大な作業の合間に、冬の熊野灘で泳ぎ、海底の珊瑚礁や魚の群れを眺めてはひとときの慰めを味う日々でした。4月20日にようやく日本を発ったものの、ブルキナファソのVISA発給を待ちながらドイツでさらに2ヶ月近くを過ごし、ワガドゥグに戻ったのは6月半ばでした。バンドメンバーを伴っての日本行きまであと5週間しかありませんでした。その頃には様々な経緯から、オペラ公演のみならず、万博での公式式典での40分間の演奏も頼まれてしまい、オペラとは全く別の5曲をマブドゥに用意してもらっていましたが、私はその全てを5週間でマスターしなければならず、依然として続く万博事務局とのやり取りで忙殺される中、ともかく1分1秒を惜しんで準備に努めるしかありませんでした。出発当日(現地時間7月23日朝4時50分発の飛行機でした)はものすごい雨が降り、私たちの住むあたりは道路が川のようになってしまいました。それでも何とか空港へたどり着き、無事出発し、初めて飛行機に乗ったマブドゥ、ラミッサ、ヤクバは大興奮。でも機内のトイレの使い方も何もわからない彼らに現場でいろいろ教えるのはなかなか大変でした。イスタンブールでの乗り換えは、なんと次の便を待つこと11時間50分!! 日付が変わってようやく関西空港行きの便に乗り込み、10時間近いフライトで7月24日夜7時頃に関西空港に着いた私たち。検疫でイブラヒムが引っ掛かり、(39度1分の熱でカメラが反応)そのまま空港内のクリニックへ。私の下手くそなモレ語通訳による問診後、直ぐに血液検査が行われ、あろうことかデング熱と判明。その後も延々と続く検査や質問攻めの末、ようやく2時間半後に入国させてもらいました。が、既に22時を過ぎて閑散としたラゲージクレームに寂しく取り残された私たちの荷物を引き取ろうとしているところへ麻薬捜査犬を連れた警察の方々が!すると犬が私たちの荷物のうち2つに異常に興奮して反応するではありませんか!メンバーの誰かが違法薬物を持ち込んだのかと、私は啞然…でも山羊革を張った太鼓の匂いに犬が興奮しただけでした。翌朝9時から金橋小学校で子どもたちとのリハーサル開始なのに、イブラヒムを奈良県立医科大学病院の感染症科へ連れて行って受診させろと至上命令が下り…。すべて綿密に計画を立ててありましたので今更リハーサル時間変更など不可能。ですがブルキナファソ大使館や万博の事務局の人々が病院への付き添いをしてくれるはずもなく…結局ブルキナファソ在住の日本人ダンサーで今回もオペラに参加してもらっている吉田さんに病院への付き添いをお願いしました。この後も次から次へと起こる予想外の出来事の連続で、まともに眠ることすら出来ない私の姿に気を遣ったマブドゥは、歯の激痛を私に告げることを躊躇。ひたすら何でもない顔をし続けていましたが、あまりの痛さに遂に自分でその歯を抜いてしまったんです!翌日遅くなってからそれを知った私は、衝撃のあまり目眩がしました。せっかく保険が掛かっているのに、何で歯医者に行かないのよ?! 化膿したらどうするのよ?主演歌手無しで公演できるはずないじゃない⁈? でも「あなたがそんなに忙しいのに歯医者に連れて行ってもらうなんて、そんな迷惑をかけられない」というマブドゥ…ステージ上で見せる笑顔の裏の、凄まじい真実の一端です。(この後の報告は②に続きます) もっと見る





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