デジタルアルバム LÀ-BAS OU ICI...8月24日に私たちの新しいアルバムがリリースされました。オペラ LÀ-BAS OU ICI... の中からMaboudou Sanouの作曲した4曲を収録しています。ブルキナファソはいまだテロとの厳しい 戦いを強いられています。ですが、真の独立を求めてトラオレ大統領の下に団結し、よりよい未来のために頑張っています。世界の他の地域でも戦火の絶えない今、平和を切望する歌声を世界中に届けたいのです。どうぞ皆様がアルバムをダウンロードしてお聞きくださいますよう、メンバー一同、心からお願いします。上記のタイトルをクリックしていただきますと購入サイトに飛べます。
この文章は、完成版公演のご報告の追記です。フランシス・ケレとの出会いのきっかけは、ベルリン在住の女性建築家フロレンティン・サックに誘われてあるエキシビションのオープニングパーティーに行ったことでした。彼女の交遊関係にはやはり建築家が多いのですが、彼女の話に出てくる人物のなかに、どうしても会ってみたい人がいました。その人は、とある映画(Der vermessene Mensch、 英語タイトル The Measures of Men)の撮影のために5ヶ月ナミビアに行っていました。ドイツがナミビアを植民地支配していた時代に行ったジェノサイドのシーンを撮影するために、当時さながらの村を建造して、破壊するという話でした。撮影とはいえ、現地の人々の憎しみが新たに甦って大変な目に遭ったりしないのだろうか?なかなか大変な仕事だろうと想像していました。2022年9月にベルリンからブルキナファソへ戻る直前に、ふとその人-ゼバスティアン・スクプに会うチャンスが訪れました。フロレンティンと韓国料理屋で夕食を摂っているときに電話があり、これから二人とも自分のアパートに来ないかと誘われたのです。その夜、ナミビアでの仕事はヒンバ族の魅力的な女性たちがこぞって手伝ってくれたという話を聞きながら、ゼバスティアンの日本人の友人ヒロキさんが次々と手際よく出してくれる日本風の酒の肴に舌鼓を打つ、贅沢な時間を過ごしました。ゼバスティアンがその夜の記念にくれた大判の写真に映るヒンバ族の女性たちの美しさは際立っていて、彼女らは一生水浴をせず、火を炊いて煙で身体を浄めるという話に、これぞ文化の多様性だと心打たれました。ブルキナファソへ戻った私に、しばらくしてゼバスティアンからメールが届き、その年の暮れに日本へ旅行する際に一級の茶室を見たいんだけれど、どうしたら見られるかと相談がありました(彼は茶道を嗜むのです)。そこで、その時期に特別公開されている茶室の情報を提供しました。2度目に彼に会ったのは2023年1月の半ば、ベルリンのシュタイナーハウスで私の室内オペラ「A Vermilion Calm」を上演したときでした。私はブルキナファソから三週間の予定で戻ってきていましたが、敗血症で入院してしまい、病院の外出許可を取って観に行きました。ゼバスティアンも日本で骨折してしまい、旅行を早めに切り上げて帰って来たそうで、車椅子生活だったにも関わらず公演を観に来てくれて、感激でした。5月に再び二週間ほどベルリンを訪れたとき、ある夕方数人のゲストと共にディナーに招いてくれました。その時に私はブルキナファソでのオペラ公演の話をしたのだと思いますが、9月に入って、彼から思いがけないメールを受けとりました。なんと、ヒロキさんと共に私のオペラ公演を観るために、わざわざワガドゥグへ来るというのです!ブルキナファソはテロが多発しており、渡航は推奨されておらず、ベルリンからの距離も決して近いとはいえません。しかも私のオペラは演出も舞台美術もほとんど私が手掛けている、極めて低予算の、手作りプロダクションですので、ケルン大学で舞台美術を教えているゼバスティアンのような人がわざわざ飛行機代を払ってまで観に来ると聞いて、嬉しい反面、正直にいうと、かなりたじろぎました。彼らのビザ取得のための招聘状や宿泊場所の確保などを手伝いながら、彼らは単にオペラを見に来るのではなく、公演の最終準備を手伝ってくれようとしているのだと理解しました。ところが、いよいよ彼らがベルリンを出発する一週間前になって、エアフランスが欠航を決めたという連絡が転送されてきました。これには全く驚きました。エアフランスは8月の前半からワガドゥグへの運行を中止しており(それはニジェールで7月26日に起こったクーデターの影響で、ブルキナファソの現政権がはっきりと、クーデターを起こした側を支持すると表明し、マクロン政権にNo!を突きつけたからです)、再開の前兆は何もなかったのにも関わらず、この区間の航空券を売り続けていたとは!ゼバスティアンたちはきっと旅行を取り止めるだろうと想像しましたが、さにあらず。即座にトルコ航空のフライトを予約して、公演の4日前にワガドゥグに到着しました。それより一日早く到着していた、私がベルリンから招いたトーンマイスター(音響技師と録音プロデューサーを兼ねた職責です)の二人は、泊まる予定だった家が直前に漏電火事になりかけて修理も怪しかったので、急遽、ゼバスティアンたちの借りた家に同居させてもらうことになりました。同じベルリンから来たとはいえ、面識のなかった二人組同士がワガドゥグで突如一週間のシェアハウス状態になったわけです。公演2日前から会場での総合リハーサルが始まりました。音響機器の配置、背景のビデオ映像をスクリーンに映し出し照明を合わせていく作業などのすべてが完了してようやくオペラ全体を通して演奏してみることができるわけですが、たった二日間の総合リハーサルですから、できる限り有効に時間を使い、不安材料をひとつでも多く解消していきたいのが私の心情です。初日の総合リハーサルは様々な準備とチェックのため、演奏家たちにとっては待ち時間が多いものです。とはいえ、その間に自分自身の楽器、衣装のチェック、初めての本舞台での動きの感覚のチェック、歌詞や台詞の練習など、いくらでもやることはあるはずなのですが、とりとめのない冗談話をしたり、オペラとは無関係の音楽を遊び半分に演奏したり、延々とそうやって時間を潰すバンドメンバーの姿に私はイライラしました。が、自分にはありとあらゆる仕事が引き続いてあるので、それを注意しに行く余裕すらありませんでした。いざ、通しが始まってみると、必要な小道具が手元に揃っていなかったり、衣装の替えにてこずったり、小道具の置場所を間違えたり、ミスの続出で私は爆発寸前になりました。一方、ホールのスタッフも「明日やれることを今日するな」という悪い冗談のような言い草を地で行く、ブルキナファソ人にありがちな対応で、それを制するにはこちらも強い態度が必要でした。そんなこんなでやり残したことはたくさんあるままに、21時過ぎに初日のリハーサルを終了せざるを得ませんでしたが、バンドのイブラヒムが「明日は何時集合?」とあっけらかんと聞いてきた瞬間に堪忍袋の緒が切れました。と同時に、ゼバスティアンたちはおろか、トーンマイスターたちと顔を合わせる勇気もないくらい、私は打ちのめされていました。4年をかけて取り組んできたプロジェクトの出来がこんなにもお粗末なもので、それをわざわざベルリンから手伝いに来てくれた人々の目に晒したことが、なんとも申し訳なく、恥ずかしく、悔しく、やるせない思いで押し潰されんばかりだったのです。しかしこの時、マブドゥの関心は全く別のところにありました。彼はゼバスティアンたちが宿に戻るための車が検問になるべくかからない道を指示しようと躍起になっていて、それにも関わらず、すでに出発していた車の行方を見失ってしまっていたのです。私はバンドを臨時召集して、重大な話があるから、とあるレストランで私とマブドゥを待つようにと言い、そのミーティングで何をどう話すべきかだけを考えていました。この夜の苦しさは忘れることができません。突然降って湧いた苦しみではなく、何ヵ月もの間懸念していたことが、ついに恐ろしい現実となって目の前に現れた感じでした。「このままでは公演を中止、または延期するしかない」と私は彼らに告げました。中止や延期のあらゆるリスクを考えても、無様な公演を敢行するよりはましである、と。マブドゥと私の、数ヵ月にわたる雑用にまみれた日々。それをほとんど手伝うことも、理解することも、知ろうとすることすらなかった他のバンドメンバーに対して、抑えていた怒りが込み上げました。マブドゥがなんでも自分(と私)で背負い込もうとする性格だというためもあったのでしょうが、それにしても、今日の半日だけを見ても、あまりにも受け身で、自覚に欠け、プロフェッショナル意識の欠片もないと、私はモレ語、フランス語、英語のまぜこぜで彼らの態度を非難しました。内容がどれ程正確に伝わったかは定かではありません。ただ、私が限りなく落胆していること、本当に公演を延期しかねないということは全員がはっきりと感じたはずです。明朝9時にホールに集合して、問題箇所を逐一チェックしていくというブレイマの提案で、その夜は解散しましたが、心はとても重く、もし公演を延期したり中止したりしたら、どうなるだろうかという想像がぼんやりと頭をよぎっていました。翌日9時前にバンドメンバー全員がホールに来ており、緊張感溢れるダメ出しが行われました。夕方からゲネプロに加わった合唱団は、理解不足、練習不足で予想を上回る混乱を引き起こしましたが、バンドはそれをしっかりフォローしてあまりある仕上がりを見せてくれたので、救われました。「雨降って地固まる」と言われるように、前夜のミーティングの結果、気が引き締まって底力を見せてくれたようです。賛助出演してくれていた私の次男(彼は4月からブルキナファソに滞在し、狙撃手の役でオペラに出ていました) に後から聞いた話では、初日のゲネプロの後も、ヒロキさんはオペラ全体に対してとても好印象を持ってくれていたようで、彼らを落胆させたと思ったのは私の杞憂だったのかもしれません。ヒロキさんはブルキナファソに来る前に、ナミビアからドイツに来ていたオペラのプロダクションをベルリンで観たそうで、それが、ただひたすらにヨーロッパのオペラの形式を踏襲しただけのものだったと、少し不満だったようです。その意味で彼は、私たちのオペラの、西アフリカの伝統的要素をたっぷり含んだ型破りな挑戦を評価してくれたのかもしれません。ゼバスティアンとヒロキさんはゲネプロから本番に至る様子を撮影し、各出演者にインタビューを行いました。彼らの目で見たこれらの状況を、もしかしたら後にドキュメンタリーに仕上げてくれるかもしれません。本番当日の、子どものための公演と一般公演の間の3時間に、黙々とステージを掃除するゼバスティアンの姿がありました。それは彼が日本の精神として学び、実践した行動なのです。一般公演終了直後、ゼバスティアンは出演者全員に小綺麗に包んだ小さな贈り物を手渡して、みんなの苦労をねぎらいました。中身はそれぞれに異なっていましたが、全て日本で買ってきた美しい品物で、小さな扇子、お茶、キーホールダーなどでした。ブルキナファソ/日本のプロジェクトで思いがけなくもドイツ人が見せてくれた「和の心・もてなし」は、3日間のドタバタ劇の葛藤と興奮を、清涼な息吹で鎮めてくれました。ありがとう、ゼバスティアンとヒロキさん!
この数ヵ月、オペラの完成版公演の準備の間に、あまりにもいろいろな困難が立て続けに起こり、毎日これが現実とは信じられないような思いで、なぜこうも苦難が連続するのかと、考えたところで答えなど見つからないし、一つ一つ問題に対処するのが精一杯でした。結局私は、フランス語の会話の通訳からバイクの運転まで、多くをマブドゥに頼らざるを得ないのです。様々の用事で各省庁を訪ねたり、ポスターや招待状を刷ったり、テーラーに行ってコスチュームを縫わせたり、足りない機材を知り合いのスタジオに借りに行くのすら、他のチームメンバーにはほとんど何ひとつ任せられないという状況が、マブドゥと私の二人を精根尽き果てるまでヘトヘトにさせた一因です。ですが、字がちゃんと読めない・書けない、公用語で込み入った会話ができない、そもそも大臣のような人々に会うこと自体に怯んでしまう、というような仲間に何かを任せることはとても難しいのです。ブルキナファソは多言語社会で、母語が異なる相手と話す機会が多いこともありますが、基本的にほとんど誰しも、相手の話を半分しか聞いていない印象で、早とちりがとても多く(これは喫茶店での注文などでも同じですが、間違いは頻繁に起こります)、コスチュームにしても、様々の不具合が生じて、何度やり直させたかわかりません。時間や期日も全然尊重されませんから、心配や気苦労は尽きることがありません。読み書きが不自由な場合は、やるべきことをリストにして一つ一つ確実に済ませていく - というような、先進国社会ではごく当たり前の方法もとれませんので、複雑で長い行程を全部頭に入れてもらうのは至難の技です。また、物事の全体像を見渡す力、それはオペラのストーリーや構成の全体像でもあり、またプロジェクトの全体像でもありますが、これを理解しようと努め、また実際に理解できる人がほとんどいないのです。それは意思の問題であると同時に、やはり経験と能力の問題でもあります。人生で、与えられた仕事をこなす、ということしかしてこなかった人々は、全体像を見ようとする気もないし、それを把握する能力が育っていないのでしょう。立て続けに起こる難題- 例えばバラフォニストのブレイマがデング出血熱にかかってしまい重症に陥ったこと(彼以外にも多くの人がこの期間、デング熱で倒れました)、教育省からの重大な手紙が、どこでどう間違ったのか、二週間以上も手元に届かなかったために、子どものための公演に児童たちを招待するのが直前になってしまったこと、ドイツから来てくれる音響技術者たちのために借りようとしていた家が、彼らの到着二日前に漏電火事を起こしかけたことがわかり、急遽他を探さなくてはならなくなったこと、4つ借りることになっていたマイクロポートが直前になって3つしか借りられなくなったこと(12台あったはすが、あとはすべて壊れていることが判明)、本番前日に合唱団員のお母さんが亡くなり、急遽お葬式があり(こちらでは人が亡くなると即日お葬式をするのが常です)、合唱団全体がほんの少しの時間しかゲネプロに来られなかったこと - なとなど様々ですが、それらの事態への反応や考え方が日本の常識とはまるで違うところが、私にとってはさらに状況を難しくします。いかに手作りオペラとはいっても、裏方をやってくれる人々の存在なしに、すべてをマブドゥと私で仕切るのは、かなり無理があったということです。彼は主役を歌っているのだし、私たちは作曲もし、私は演出もしているのですから。この事がわかっていなかったわけではないのですが、オペラとはどんなものなのか?という青写真を知る人がこの国のどこにもいないので、チームのなかにも外にも、裏方を任せられる人材が見つからなかったのです。ただ、あまりにもいろいろな苦難が立て続けに起こると、誰かに呪われていると考えるのが、こちらの人々の常です。そうなると、お祓いや生け贄を捧げての祈祷などが、忙しい最中に必須事項となりますから(マブドゥはいちいちそれを私には話しませんが)尚更忙しくなります。そして、曲がりなりにもすべての困難を乗り切って、公演が成就したとなると、やはりそのお陰だという話になります。念願叶った折りには、あらかじめ約束してあった捧げ物をしなければならないそうですから、それはまたそれで大変です。以前、あるアメリカ人が日本社会の特徴を「出る杭は打たれる」と表現していましたが、それはなにも日本に限ったことではないらしく、ブルキナファソでも、オペラプロジェクトが少しずつでも発展しているせいで、いろいろな方面から嫉妬され、身に覚えのない恨みを買っていることは大いにあるらしく、マブドゥが時々おうかがいをたてに行くフェティッシュからも、大勢の敵がいるだの、仲間から裏切りが出るだのと忠告を受けているそうです。それらの人々がやはりフェティッシュの力を借りて私たちにかけている呪いに打ち克つために、こちらもフェティッシュに頼らざるを得ないというわけです。もともと、物事をきちんと考え詰めて、前もって十分な用意をするという習慣が極めて根付いていないここの文化圏で、更に、いかなる場合も(冠婚)葬祭があらゆることに優先されてしまうというリスクを抱えつつ公演を成就させるには、確かに神仏や霊の力を借りる必要もありそうです。「○○人は~」などという言い方で、出自や人種で安易に人々を評価するような態度は極力避けたいのですが、正直なところ、やはり、公演の4~5日前にベルリンから駆けつけてくれた友人たち(ドイツ人と日本人)、現地に5年住んでいる日本のダンサー・吉田さんらには安心してそれぞれの持ち場を任せられました。それは彼らが本番から逆算して、どの時点でどれだけのことが必要かという計算をすることに慣れていて、彼らは彼らでそれぞれに予想外の困難に見舞われていはするのだけれども、それらをクリアしつつ一定の結果を出す能力が備わっているからです。(例えば、ベルリンから来てくれた二人のトーンマイスターは、ワガドゥグで一番設備の整っているはずの今回の会場で、故障しているケーブルの修理に3日の間、毎日数時間ずつ費やしました。それでも尚、公演の途中でケーブルの不具合から効かなくなってしまったマイクもあったのです。)実際に彼らは皆それぞれに、こちらの期待以上の仕事をしてくれて、そのお陰で実際面のみならず、精神面でもとても助けられたという気がします。(不意打ちの困難に見舞われ続ける中で)良い意味の驚きは、プロジェクト内部に素晴らしい高揚感をもたらしてくれるからです。結果に対する強い責任感とビジョンを持って行動するのは、社会のなかで培われていく能力です。ところが、そのような考え方がほとんど存在せず、責任という感覚も異なる地平に存在している文化圏においては、仕事をする上で相手をどこまで信用して良いのやらわからなくなってしまうことがままあります。何事も神の御意志で起こるのであって、なにかがうまくいかなかった場合、それは神がそう望まなかったか、あるいは誰かに呪いをかけられたせいであると考え勝ちな精神性と、失敗の原因をあくまでも自己、あるいは他の誰かの行動のなかに追求し、それを反省し、次回の改善に備えようとする精神性には大きなギャップがあります。余談ですが、「改善」という日本語がブルキナファソのエリートたちの間でもかなり流行っていて、最初にこれを聞いたときに私は、そんな当たり前の考え方の何に彼らが感動しているのか、さっぱりわかりませんでした。今は、それが当たり前の考え方として根付いていないからだということが、はっきりわかります。文化の多様性を認め、互いを尊重しながら協働していくことの難しさは、まさにここにあると思います。しかしながら、崖っぷちギリギリまで追い詰められた人間の底力、危ない橋を渡らざるを得ない一か八かの悲惨な覚悟というものも、思いがけない成果を発揮させることもあります。実際に今回何が起こったかということは、いわゆる裏話の類いですので割愛しますが、そんないろいろな力が混ざりあって出来上がったのが、よくも悪くも公演という結果なのです。ここまでの文章で、私は彼らの文化圏の良さにについてほとんど言及していないことに気付かれているかもしれません。全くその通りなのです。それはきっと、この怒濤のような苦難の日々に、私はいつしかそれを見失ってしまっているからだと思われます。マブドゥはマブドゥでまた、彼らにとって特に大切ではない細部が、私にとって大変重要であることがなかなか理解しがたいということを漏らしていました。彼と私は、互いの文化圏のエッジに立っていて、例えば彼はこちらでは大変珍しいことに時間厳守であるし、私は私でかなりブルキナファソ的な振る舞いに慣れてきてはいるのだけれど、それでもやはり、互いに川の両岸から手を差し伸べ合って、プロジェクトが崩壊せずに発展を遂げるよう協力しているような感覚があります。数多いといわれる"敵"の狙いもまさにそこだそうで、マブドゥと私が決裂するようにと、様々に呪いをかけていると言います。実際にそういう危機は何度も訪れたのであり、それを乗り切ってここまでたどり着いたのは、互いの我慢と、共に見た夢に賭ける熱意だけではなく、奥底にある人間同士としての信頼だったと今になってわかります。彼はもともと批判を受けたり、激しい口論などによる衝撃に弱く、これまではそういうことが起こる度に演奏には悪い影響しか出ませんでした。しかし、今回はそれを克服して、直前までの様々の葛藤、それに加えて出番の直前まで席の暖まる暇もないくらい雑事に駆け回っていたにも関わらず、見事に、ほぼミスなく、主演の大役を果たしました。彼が自分自身を乗り越えたこの公演の成果は、何よりも私を感動させました。暫定軍事政権のもと、現在の政権に対する二度にわたるクーデター未遂があり、夜8時以降は交通規制と厳重な警戒態勢が敷かれ、今回の会場CENASAの回りも夜は人通りが極めて少なくなります。外交団はその地域への夜間立ち入りがほぼ禁止されているそうです。午後4時からの子どものための公演が満席だったのに引き換え、夜の公演は人数がまばらだったことの一因はそれだと思います。公演から5日後には、地方の村でテロのために百人近い人々が虐殺されるという痛ましい事件が発生しました。また、原因はわかりませんが、今年はデング熱が大変な勢いで蔓延しており、病院はどこも一杯の状況です。そんな中、二つの公演を無事に終えられたことはすでにそれ自体、幸運なのだと思います。最後になりましたが、オペラの主役を歌いながら4つの楽器を弾きこなし、私のアシスタントとしてあらゆる面で大活躍し、このプロジェクトを支えてきたマブドゥとはいったいどんな人物なのか、彼のプロフイールを紹介したいと思います。彼は来年40歳を迎える、なかなか優れた作曲家・歌手・楽器奏者ですが、他のミュージシャンたちがフランスやベルギー、あるいは中国などに演奏旅行に行く機会を得ていくのを横目にしながら、不思議といまだにそのチャンスに恵まれたことがありません。外国といったら隣国のガーナとベナンにしか行ったことがなく、飛行機に乗ることが長年の夢で、今回ドイツから来た友人たちが残していった機内用スリッパと歯ブラシ・耳栓のセットをもらって子どものように喜ぶマブドゥ。そんな無邪気で素朴な面を残しながらも、彼は一族の実質的な長の役割を果たしていて、親類縁者のあらゆる揉め事・厄介事は彼のところへ持ち込まれます。それを解決したり助けたりすることは、真から性に合っているようでもありますが、やはり疲れはててしまうこともありますし、慢性的な不眠症に悩まされてもいます。リセ(高等学校)を中退したそうですが、バンドのなかではもっとも高学歴で、彼がリセで習った英語をメインに、私の下手なモレ語とそれより更に下手なフランス語を混ぜてやり取りし(マブドゥはこれらの言語はかなり得意ですし、それに加えて母語であるジュラ語とボアモ語を話します)、これで4年間のプロジェクトを支えてきたのですから、誤解がちょくちょくあったのも驚くには値しないわけです。この文章を書き終えようとして、マブドゥこそが孤独なのかもしれないと、あらためて思い当たります。ドイツから駆けつけてくれた友人たちを私が安心して頼れるのは、文化的背景だけではなく、彼らが友人であるからという理由が大きいのかもしれません。だとしたら、いつでも他人を助けるために奔走しているマブドゥに、彼にとっても晴れの舞台であるこの公演に際して、オーバーワークの彼に(普段彼から助けられている人々から)助けの手が差し伸べられないのは、何故なんでしょう?それもある種の嫉妬なのか、気後れなのか、単に彼が人に頼ることが下手なのか、私にはよくわかりません。私が昨夜、ブルキナファソを離れて南アフリカへの1ヶ月の旅に発つのを、空港までバイクで送ってくれながら、軽やかにオペラの曲を口ずさんでいたマブドゥ。オペラの曲はマブドゥと私で半分ずつ作曲していますが、それは私の曲でした。マブドゥ、遠からずして、あなたが飛行機に乗る番が来ると思うよ。それが現実的な夢になったとあなた自身思えるからからこそ、そんなに軽やかに口ずさんでいるんだよね?(追記を数日後に投稿します。写真はSophie Garciaの撮影したものです。)
早いもので、ブルキナファソ・オペラ・プロジェクトの4年目も後半に入りました。当初から2023年末までに全編を完成させると申しておりましたが、そのお約束を果たす日が近づいています。非常に異なる文化圏に飛び込んで、共通言語もない相手と協働して、オペラとは何かということもほとんど知られていない土地で、一からオペラを造り上げるために、4年という歳月が最低限必要だという勘が働きました。けれどもその4年間に何が起こるかは、全く予想できていませんでした。2019年の11月にはブルキナファソへ来て準備に入りましたが、その頃新型コロナウイルス感染症の流行が始まりました。ブルキナファソでのテロも激化していき、その影響から2022年1月、そして9月にも再度、軍部によるクーデターが起こりました。個人的にもいろいろな危機に遭遇しました。新型コロナウイルス感染症のロックダウンの時期に夜中に家に入った泥棒にコンピューターと電話を盗まれたり、2度にわたって現地の演出家に騙されて支払った前金が戻ってこなかったり…。しかし最も大きなストレスは、オペラの土台にしている小説が出来上がってこないことでした。2019年の末に出会った、コンゴ共和国から政治難民としてブルキナファソに逃れて来ているラッパーのMarital Pa'nucchi ことMoyi Mbourangonさんは、当時、半自伝的小説を書いており、原稿は既にほぼ出来上がっていると言い、あらすじを話してくれました。私は直観的にこれこそ西アフリカで制作するオペラにふさわしいストーリーだと思ったのです。その後少しずつ、まずは作中のお母さんに宛てた5つの手紙(詩の形式です)を、そしてその後第一章から順番に、推敲が終わり次第メールに添付して送ってくれることになりました。コンゴ共和国での活動家としての行動や、それが原因で国を追われ政治難民としてブルキナファソで生きることになった経緯、故郷に残してきたお母さんへの思いなどが描かれているだけではなく、同じアフリカ人として、しかしある意味では外部から来た人間としての視点でブルキナファソを見ていること、また彼の知性によってアフリカの良いところも悪いところも、透徹した歴史観と豊富な知識に支えられて偏ることなく、しかも面白く描かれていることが非常に魅力的でした。ですが、当初の見積もりでは、2020年の末までにはすべての章が送られてくるはずでしたのに、2021年4月末の最初の公演の準備時に受け取っていたのはなんとまだ第1章だけだったのです!(正確に言うと、公演の数日前に第2章が送られてきましたが)2022年2月の公演時も、半月前にようやく第5章を受け取ったばかりという状態でした。当時は全3幕のオペラを考えており、全9章を3章ずつに分けて各1幕として制作しようと考えていました。それでももちろん予め全体を把握して構成を考えるほうが良いに決まっています。ですが、生まれてはじめての小説を完成させようとして苦労している作家の気持ちがよくわかるだけではなく、彼自身の人生を土台にした現在進行形の物語であるのだし、アフリカの歴史に大きな変化が訪れようとしている昨今の情勢に身をおいているからには、たとえほぼ書き上げられていたとしても、推敲に推敲を重ねて、納得の行く形で完成させたいのは当然と思われました。また、私のほうも漫然と原作の完成を待つばかりではなく、ブルキナファソで、私のバンドメンバーの家族に起こった事件(イナタで金鉱の警備にあたっていた憲兵隊の一員だった従弟がテロリストの襲撃で亡くなったり(長い間行方不明でしたが、最近になって死亡が確認されました)、リードヴォーカルの奥さんの実家のある村もテロリストに襲撃され、一家もろとも国内難民になってしまいました)を織り交ぜてストーリーを構成することにしました。今まとめてこのように書くと、すっきりと聞こえるかもしれませんが、長い間の葛藤やジレンマの末の苦肉の策でもありました。ともあれ、その都度の公演にある程度の形を与えるために必死でした。しかし、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら受け取った章を何度も読み返すうちに、それらが扱っている内容があまりにも広いことにあらためて驚き、アフリカ大陸のサブサハラ地域の近世史と現状を「知り」「理解する」こと、そしてそれを「表現する」ことの難しさを痛感させられました。重なり合う主題が複雑で入り組んでいること!その総量と拡がりは茫漠として、輪郭を掴みきれないもどかしさに悩みました。そもそも、巷で錯綜する数々の情報の矛盾、各陣営のプロパガンダ合戦のさなかにあって、状況を理解し、自分自身で考え、行動し、他者に向かって公に発信していくこと - それは険しい峡谷に吊橋をかけて渡るようなものではないでしょうか?常に危うさと隣り合わせです。彼がラッパーとして政治的意見を掲げてアフリカ諸国とヨーロッパを行き来して活発に活動しながら、人知れず小説を丹念に仕上げて来たこの3年半を超える年月は、彼にとってまさに闘いの日々であり、今ももちろんそれは続いています。特に今年に入ってから彼は叔父と実兄を喪い、さらなる痛みを味わったのです。しかし遂に、2023年7月の末に、私は彼から最後の章を受け取ったのです。その時私は、日付が変わっても眠れずにまだ起きていました。すぐにファイルを開いて読みました…なんとも言えない不思議な気持ちでした。私も作曲家なのでわかりますが、大きな作品が仕上がるときというのは、人知れず、見守る人もなく、歓声も喝采もなく、ひっそりと花が咲くように、あるいは熟し切った実がふと落ちるように、静かなものです。完成を待ち続けていた私は、ようやく作品の全貌を見たわけですが、その輪郭は大き過ぎて、すぐに心に描くことは到底出来ませんでした。ですが、最終章の終わり近くの一節が私の戸惑いを救ってくれました - 全てを容認してくれるような響きで - 作者本人にとってすら、それは容易ではないのだと言う意味が込められていました...。故郷に残してきてしまったお母さんにもう7年も会うことが叶わない彼。お母さんは頼りの弟さんも、Moyiのお兄さんである長男も喪ってしまったのです...「信念に従って」「ブレずに」「自分に正直に」行動し続けるということが常に称揚され、私たちの多くはそういう生き方を目指しているのかもしれません。しかし、私たちを取り巻く世界も、その抱える問題も途方もなく大きく複雑です。学べば学ぶほど、知れば知るほど、行動すればするほど、矛盾や葛藤を抱え込み、自分の無力さに打ちのめされたり、立ち止まって360度を見回し、自分の目指してきた方向はもしや間違っていはしないかという疑念に駆られたりすることがあるのではないでしょうか?そのような衝動を脇に押しやらず、自らの感覚や心を柔軟に保ち、信念というものを硬直した干からびたものにしないようにすることは、いつでも未完成な私たち人間にとってとても大切なことだと思うのです。行動の一貫性、整合性は大切ではあるものの、それに縛られすぎると自らの成長を妨げることにもなります。歳月をかけて大きな作品を書くということは、SNSに短い投稿をしてその時の気分を誰かと共有することとは全く異なります。作品は作者自身を映し出す(というよりむしろ曝け出してしまう)鏡であると同時に、いつしか作品自らの生命を持ち始め、作者のよく知らないことや確信のないこと、理解しきれていない問題にまで侵入していき、作者はまるで自らの乗っている馬に手綱を取られて翻弄されるような事態に陥ることもあります。どこを走っていて、どこへ行き着くのかさえ定かではなくなる瞬間も訪れます。私たち個々人の意識の領域を超え、集団意識の影響を受けることもあります。文学作品を書くという行為は、この広い時空を掴もうとして、個人の限られた意識が挑む闘いだと考えることも出来ます。かくして完成した作品は、単なる覚書のような言葉の集積ではありません。Moyiさんが完成させたこの作品「中絶された未来の夜明け」は、問いかけであると同時に、預言でもあるのです。この作品の完成に心からの喜びを覚え、私のオペラにも完成の時を迎えさせるために、今、最後の努力をしています。2023年7月26日にブルキナファソの隣国ニジェールでクーデターが起こったことは皆様もご存じかと思います。Moyiさんから最終章を受け取った翌日のことでした。その影響がいろいろ出ております。ブルキナファソ政府がニジェールの新政権を支持すると表明しているために、フランスはブルキナファソへの一切の援助を停止、ブルキナファソ国民への渡航VISAの発行も停止しています。しかしブルキナファソやその隣国には現在の通貨CFA(フランセーファ、フランスが発行しています)から自国の通貨、あるいは数か国連合で発行する新しい通貨に切り替え、自分たちの経済基盤を自分たちで作り上げたいという悲願がありますので、ECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)を離脱し、隣国同士で新たな経済共同体を作ろうとする意気込みが強く、(日本での報道とはかなり違うように聞こえるかもしれませんが)真の独立への希望に、ある意味沸き立ってもいます。そんなわけでブルキナファソの首都ワガドゥグでは、反フランス感情はますます高まり、かといって乱暴な事件や過激なデモなどが起こっているわけでは決してありません。ただ、事態を懸念するヨーロッパの人々は次々に帰国しています。ドイツ大使も現職の方は任期満了しているのですが、彼が帰国すると次の大使は招聘されないので、大使不在になるのを避けるために暫しとどまっていると6月半ばに話しておられました。私のオペラプロジェクトには、何ら政治的な意図はありません。しかし、アフリカの歴史と現在を、アフリカ人の言葉と声で、オペラという芸術形式によって世界の人々に届けたいという趣旨ですので、何とかこの状況での公演実現の道を探り、セキュリティの面でもリスクの高くない状況で無事に公演を達成したいという思いです。そこで6月以来、ブルキナファソの情報·文化·芸術·観光省の大臣や、また商業省の高官の方々に面会を申し入れ、ご協力をお願いしてきました。彼らは私のオペラプロジェクトに賛同を示してくださり、情報·文化·芸術·観光省の傘下にあるCENASA(Central National des Arts du Spectacle et de l'Audiovisuel)を、11月6日(月)、7日(火)、8日(水)の三日間無償で提供してくださることになりました。長期化しているテロリストとの戦いや、ウクライナでの戦争の影響で疲弊した経済状況にある国民が見に来られるようにするため入場無料とし、学童や孤児たちのための昼間の公演もします。この会場は空港の近くにあり、警備が厳重なのでセキュリティの面でも心配が少ないです。この原稿を書いている間にガボンでもクーデターが起こりました。サブサハラはまさに変革の時を迎えています。写真は、Moyiさんに私が贈った言葉を、彼がFBに投稿したものです。"真の詩人は常に預言者である"
ご無沙汰しております。皆様その後いかがお過ごしでしょうか?皆様のご支援により実現したボボ·ディウラッソでの公演から一年が経ちました。あらためて御礼申し上げます。その後あまりにもいろいろなことが起こりましたので、一年前とはいうものの、遥かに昔の出来事のように思われます。ボボ公演の直前にクーデターが起こり、ダミバ政権が誕生しましたが、昨年9月末には2度目のクーデターが起こり、現在はイブラヒム·トラオレの政権下にあります。首都·ワガドゥグでは状況は比較的安定していますが、地方ではテロリストとの激しい攻防が繰り返され、人命が失われ、多くの人が難民となってしまっている毎日です。10月末から11月初頭にかけて開催が予定されていたSIAO(ワガドゥグ国際工芸見本市)はアフリカ全土から10日間で、のべ30万人が訪れるといわれる大きなイベントですが、9月のクーデターの後、延期が発表されました。私たちのオペラはSIAOの野外オープンステージで(部分的にですが)公演を行う予定でしたので、怠りなく準備を続けて開催を待ちました。その間に、日本から送金した資金が着金しない、知人に原付バイクを貸したところ、その人が大事故を起こしてバイクが大破してしまった等、思わぬ困難が相次いで、なんとも心もとない日々でした。私のバンドのメンバーの故郷Nounaはテロリストが猛威をふるい、とりわけひどい状況に陥っている地域のひとつですので、皆故郷の家族に仕送りして援助していますから、私もなんとかして資金を調達して公演を行い、メンバーにギャラを支払うことでそれを助ける必要に迫られていました。10年程前にブルキナファソで日本大使をしておられた杉浦勉元大使は丸紅株式会社の方で、現在丸紅ギャラリーの館長をしておられます。昨夏帰国の折にお目にかかり、SIAOへのオペラの参加の話を聞いていただき、ご支援をお願いしたところ、ご尽力くださり、幸いにも丸紅株式会社がSIAOでの2公演分の資金を提供してくださいました。しかしSIAOの新日程はなかなか決まらず、もうキャンセルされてしまうのではという憶測が巷で飛び交いました。「そんなはずはない。トラオレ大統領はきっと市民の願いを尊重してSIAOを実現してくれる」とメンバーと語り合って練習を続けましたが、私たちの経済状態は逼迫するばかり…。そこで、ただSIAOの開催を待ってばかりもいられませんので、当地のゲーテ·インスティテュートに提案して、一般の若者を公募してオペラに参加してもらう道筋を開くため、歌とダンスを教えるワークショップを行うことになりました。これは楽しい経験でしたが、ウクライナ戦争の影響でドイツ政府が文化予算を軒並み25%カットしたため、経済的には大変厳しい状況でした。12回のワークショップの成果をお披露目する公演を12月9日にゲーテ·インスティテュートで行いましたが、毎度のことながらテクニカル·スタッフ(音響·照明)の技術不足·知識不足のため各種混乱が生じ、思うような上演が出来ませんでした。これはとても残念なことですが、ブルキナファソの多くのミュージシャン、そしてイベントの主催者たちが共通して抱える悩みなのです。私も次回からは必ず、オペラプロジェクト専任のテクニカル·チームとリハーサルを重ねて本番に臨むことが不可欠だと肝に銘じました。そうはいっても、ボボ公演のときのようにドイツからトーンマイスターに来てもらうには相当な費用が掛かりますので、毎回というわけにはいきません。そこで地元のThéâtre Soleil(太陽の劇場という名前です)のオーナーで、優れた演出家でもあるThierry Hervé Ouéda氏と契約して、オペラ完成版公演は彼の劇場で今年5月に行うことにし、その劇場でリハーサルを重ねていくことにし、Thierryさんと劇場のハウス·エンジニア(劇場の専任の音響係と照明係)のチームが演出に取り組んでくれることになりました。Thierryさんとは12月半ばからリハーサルを開始しましたが、豊富なアイデアとみんなを鼓舞する独特の力を持った人で、彼の演出に大いに期待しています。そうこうするうちに、ようやく発表されたSIAOの新日程は1月27日から2月5日とのことでした。実は、1月1日から23日まで私の書いた別のオペラの公演のためドイツに行くことが決まっていましたので、私にとってはかなり厳しい日程でした。ですのでSIAO当局と交渉して2月1日と3日に出演することにし、私がドイツに行っている間は私抜きでしっかりリハーサルをするようにバンドのみんなに指示をしてからドイツに向かいました。ところが私はドイツで体調をひどく崩して入院してしまったのです。退院から6日目にまだフラフラする身体を引きずるようにしてなんとかワガドゥグに戻り、リハーサルに参加し始めたのが25日でした。開幕日の1月27日、私のオペラチームは午前中いっぱいThéâtre Soleilでリハーサルをした後、さらに次の月曜日、火曜日の追加のリハーサルの必要性を話し合い、解散後昼食を摂りながらマブドゥと追加分のリハーサルに関する支払いについて相談しているところへ、SIAO当局から突然WhatsAppのメッセージで今夕17:00からの出演だから直ちに会場へ来てサウンドチェックをするようにとの指示がありました!一度解散してしまっていたので、全てのメンバーに再び電話してすぐに準備を整えて会場へ向かってもらうのは至難の業でした。「いくらブルキナだからといっても、これはあまりに酷い。断るべきだ」と言う人達もいて、元の日程に戻すよう交渉しろと言われましたが、交渉したくても担当者にもそのボスにも電話はめったに繋がらないのです。開幕日はなおさら不可能でした。その上、その日の昼に公表された日程表を見ますと、私たちの出番は元の日程とはまるで異なる、1月27日(金)、30日(月)、2月2日(木)の17:00からとなっていました。メンバー全員を説得して楽器を急遽車に詰め込み、会場へ到着したのは16:10でしたが、そこからは延々待たされ、しかも12月半ばに提出した必要機材表に明記していたマイクロポートは用意されていませんでした。驚いて知り合いの音響会社から借りようと電話しましたが、折悪しくテレビ局にすべて貸し出してしまったとのことで、この時点でせっかくThierryさんと用意してきた演出の殆どは(マイクロポートなしでは歌手が動き回ったり、踊りながら歌うことができないので)実行不能になってしまい、代替案を楽屋で練る羽目になりました。SIAOのオルガニゼーションは混乱を極めており、ある程度予想はしていましたが、まさかこれほどまでとは想像しておらず、本当に呆れました。すべての混乱をここへ書き記してもキリがありませんが、まぁめちゃくちゃなんです。いつ再入院しなければならない事態に陥るかと心配しながら、毎日無理しすぎない生活を心掛けていたところへ、この大混乱!!自分が果たしてちゃんと演奏できるかどうか心配しましたが、チームのみんな共々異様な緊張の中で頑張って、結果は上々でした。開幕日の演奏の後「とても良かったよ!」とみんなに労いの言葉をかけたときの、みんなの嬉しそうな顔が忘れられません。しかしSIAOにおいても音響面のテクニカルな問題は少なからず起きました。とにもかくにも3公演を終えてホッとしています。3度目の公演は予定になかったので資金をどうしたものか、予定外のことだからお断りしようかと迷いましたが、奇特な方が500€をご寄付くださり、それでメンバー全員に出演料を支払うことができました。今は5月初旬の完成版公演のため、プロット全体を再考して手を入れている段階です。最近一番嬉しかったことは、コメディアンのLamissaがLa paix (平和)という曲の中でグリオの流儀でソロを歌わせてほしいと申し出て、やってもらったところとても良いので採用したことです。みんなが作品が少しでも良くなるようにそれぞれのアイデアを持ち寄って臆せず挑戦する姿勢が育ってきたこと、そういう雰囲気が作り上げられてきたことはこの数年の何よりの成果です。その部分の動画をどうぞご覧ください。