2022/04/03 19:31
光吉俊二先生の数論には「無」や「空」が登場する

光吉先生とはですね、鎌田先生と対談させていただいたZen2.0の懇親会でお会いしたのだと思います。最初お会いした時、タンクトップでスキンヘッドのおじさんがすごい勢いでいろんな話をしてくださって、私はたまげて、おいおいちょっと待って。そんな感じでした。

でも、何かお話になっていることに引っかかって、自分は人工自我を作ろうと思っているんだとおっしゃるんですね、、、、。人工自我ってなんですか?

人工「自我」なわけですから、自分で感じなくてはいけない、自分で思いつかなくてはいけない。それが人工「自我」ですよね。それを光吉先生は作ろうとしている、もうできるというところまで来たんだとおっしゃったんですね。

そのあと気になって、光吉先生の資料を調べていたら、無(む)とか空(くう)とかを、ご自身が作った数学のなかで、ある概念を示す言葉として使っているんですね。まず空に至って、無を通り抜けて、反空に至ることで、反宇宙から何かを持ち帰ることで、自我は創生するんだということが書いてある。「はぁ、反宇宙か」という風に思いました。

それがこういう原理にすれば実現できるはずだということが光吉先生の書かれたものにあるんですね。結構前の15年くらい前の文章ですが。ほとんど本などを書いておられない方なので。

これは一度きちっと聞いてみないとと思いました。なんでそう思ったかというと、空とか無というのは仏教の専売特許ですよね。瞑想が扱ってきた、あるのかないのかよくわからないものなのですが、空というものを体験する、無というものを体験する。

例えば横田老師は無になることを目標にするんですと、気海丹田というへその下指三本のところに気持ちを集めて、「無になるんだ」「無になるんだ」「無になるんだ」「無になるんだ」と、ずっとやっていたと。無になったかというところで、ずっと時間だけが流れて、そこで大きな拍子木をカーンと鳴らされると、自分が鳴った、という風に思うんだそうですね。そんな風にして、無というものを目指していくんだということをおっしゃっていました。ということは、無になるということは、サマタ瞑想と非常に深い関係があるんですね。

空というものにたどり着いて、その先の無にまでたどり着こうとしているのがサマタ瞑想のやろうとしていることですけど、サマタ瞑想(集中瞑想)には禅定という体験が起こるんですね。禅定という体験は、一度も体験したことのない人には、全くわからないです。これは新しい意識の状態なので。我々がこうして五感に基づいて生きている、五感に基づいて働いている意識とは、全然違う意識なんですね。五感に基づいて働射る意識が全部抑えられて行って、働かなくなると、その下にある色界心というのが表に出てくるという理屈なんですね。五感に基づいて働いている意識を欲界心というのですが、欲界心の働きが全部静まって止まると、サマタ瞑想は別名ストッピングメディテーション、止める瞑想という風に言うのですね。止まるとその奥からわっと出てくる。わっと出てきたものは全く新しい心の働きだし、これが出てくると我々のパーソナリティは非常に大きく変わってしまうのですね。

ということは、これは、我々の中で新たなものが生まれている、創発しているのじゃないか。そうすると、光吉先生が言っている、反宇宙に行って戻ってくるということを、もしかしてサマタ瞑想はやっているのではないか、と思ったんですね。そこのところの疑問を光吉先生にぶつけていった、というのがこの対談です。


サマタ瞑想はアナログ、ヴィパッサナー瞑想はデジタル

そして、結論としては、やっぱりそうだったかぁということなんですが、そんな大まかなことじゃなくて、宇宙と反宇宙の接点を通って、向こうに行って戻ってくるということで創発が起こるわけです。

こっちの宇宙から反宇宙に行けば、反宇宙のほうで何か生まれるわけですね。

反宇宙からこっちの宇宙にかえってくれば、こっちの宇宙で何か生まれるわけです。

そういう風にして創発というのは起こるんだということを数学的に明らかにしたわけです。

光吉先生の数論は、量子論と相対性理論を同時に説明できる、そういう数論なんです。それから、デジタルとアナログを同時に表現できる、という演算子です。このデジタルとアナログを同時に表現できるということが、ものすごく重要で、すべての物を明らかにしていく。

そして、実はマインドフルネスというものの実践の構造もそうなっている。アナログがサマタ瞑想、デジタルが観察瞑想と言っていいと思います。なぜか? 皆さん量子力学を勉強したことのある人もいるかもしれませんが、我々が量子というものを観察すると、量子は粒子になるんですね。

たとえばこういう実験があります。光子、光の粒を一個ずつ発射する。2つスリットがあります。こちら側で光子を発射すると、スリットを通った光子は向こう側にあるフィルムにぶつかって、そこに感光します。スリットが2本あると、光子が一個ずつ行くわけだから、向こう側に2本の像ができるはずですよね。

これが、光子が何らかの形で通ったというのを観察すると、粒子としてぶつかるということが起こる。

でも観察しないと波になるんですね。一個ずつしか出ない光子があたかも波のようにふるまって、その波が2つのスリットを通っていくので、干渉縞というのができるんですね。波の山と山が重なったところが濃くなって、山と谷が重なったところが薄くなる。

これは、どこかでどっちのスリットを通ったのかというのを検出するような装置をいれると、干渉縞はできない。粒が当たった2本の痕しかできない。

ですから、観察するということは粒子をもたらす。デジタルを実現する。ですから観察瞑想はデジタルを実現するんです。

それに対して、サマタ瞑想はアナログのほうで理解できる。ですから、このアナログとデジタルの両にらみでとらえていくことで、いろんなことがわかってくるということがわかりました。


禅定体験とはメビウスの輪を通って反宇宙に行くことだった!

それから、宇宙と反宇宙の接点の構造が、メビウスの輪になっているということを光吉先生は見つけたんですね。メビウスの輪が宇宙と反宇宙の接点のところの構造なのだと。メビウスの輪のところを通ることによって反宇宙に行き、そしてまた戻ってくる。この世界観は数学的には説明できた。数学者にとって数学的に説明できたということはそれが事実ですよ。それが現実なんだということです。それ以上でもそれ以下でもないわけですけども。

宇宙の中で、このメビウスの輪の構造がどこにあるかというと、ブラックホールにあるんだと言っていました。ブラックホールが宇宙と反宇宙の接点なんだと。

それから、光吉先生の数論はもうひとつ、宇宙の構造と意識の構造が同じなんだ、同根なんだということを示しているんですね。

ということは我々の意識というもの宇宙と同じ広がりを持っている。我々の意識の中にもブラックホールがある可能性がある。そういうことになっていくんですね。

であれば、我々がサマタ瞑想で禅定体験をするのは、我々がブラックホールの中に入り込んで、向こう側に抜けて、また戻ってくるということなんじゃないか。あるいは我々が生まれるとか死ぬということも、もしかしたらそういう現象なんじゃないか。

そういうようなことが見えてきた、ということなんです。


宇宙の数式と意識の数式は同根

そしてこれは宇宙の数式なんだと光吉先生はおっしゃっていました。

宇宙の数式が書けるということは、宇宙を外側から見ているということだから、反対側を観れば、次は宇宙の外の数式が書けると思いますとおっしゃっていました。

宇宙の外の数式が書けるということは、宇宙内存在であることをやめるということです。宇宙ない存在、イコール生命であることをやめる、ということが仏教でいう涅槃ということなんだと思います。ですから、涅槃というのも、いずれ数式表現されてしまうということだと思います。

ヴィパッサナーが目指しているのは、禅定ではなくて、涅槃です。ですので、ヴィパッサナーが目指しているのは、このメビウスの輪の外に出る。宇宙内存在であることをやめるということなんだな、ということが、数学的に示された。というのが光吉先生との対談でたどり着いたことでした。

これが終着点、わかったなーというところなのですが、だからと言って私は何も変わらないのですね。何も変わらない。今まで通り生きているだけなんで。そこまでわかって、さあどう生きていくか。また出発点に戻ってきちゃったな。というのがこの本の終わり方ということになるのかと思います。

(熊野宏昭)

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