舞台「一槍の魂」の主人公、上泉伊勢守信綱。今回は、実在した上泉伊勢守信綱が、どのような人物だったのか、ご紹介していきます。
今から約514年ほど前。上泉伊勢守信綱は、永正5年(1508年)に大胡城主・上泉義綱の次男として生まれました。文武両道であったといわれ、「念流」「天真正伝神道流」「鹿島神流」「陰流」と、武芸を修めました。それにとどまらず工夫を重ね、ついには「新陰流」を創始します。
家督を継いだ伊勢守信綱は、大胡城主として、戦国武将・長野豪正の家臣(?)として大いに活躍を見せ、「上野国一本槍」と言われました。長野業正のもとには、「上野国十六槍」とうたわれた猛者たちがいましたが、その中でも一番であるというつわものでした。しかし武田の進軍により長野勢は敗北、伊勢守信綱も、まだ若い息子を戦乱で失うなどの悲しみがありました。
そんな伊勢守信綱を、武田晴信(のちの信玄)は配下に加えたいと考え、勧誘します。しかし信綱は、打ち首とされてもおかしくない状況にも関わらず、武田への仕官を辞退。一兵法者として生きていくことを強く望み、ついに武田晴信も伊勢守信綱のことを諦めざるを得ませんでした。
兵法者として旅を始めた伊勢守信綱は、その剣技と人柄により、数多くの弟子を獲得していきます。中でも有名なのは、柳生宗厳(むねとし)。新陰流の極意を会得し、二世の印可を与えています。
そうして兵法者としての道を究めるうち、ついに上泉伊勢守信綱は、正親町(おおぎまち)天皇の御前で、天覧試合を行うこととなります。その剣技に魅了された正親町天皇は、伊勢守信綱に対し「従四位下(じゅしいのげ)」という官位を与えられました。
武芸の腕のみならず、人格者としても慕われ、多くの門人が全国にいたという上泉伊勢守信綱。意外なことに、いつどこで亡くなったのか、はっきりとしたことはわかっていないそうです。亡くなった場所や時期は定かではありませんが、群馬県前橋市上泉町の「西林寺」にお墓があり、今も大切にされています。
西林寺などの信綱公ゆかりの地や、他武将との関係のお話は、また今度…。
次回、「どんど焼きで信綱公演武を初披露!」お楽しみに!