2022/02/07 02:23

皆さん、今晩は。

今夜は、漢字の音について、お話したいと思います。

〇呉音

そもそも、漢字には音と訓があり、音には、呉音・漢音・唐音と慣用音があります。

今から千八百年前の西暦220年、中国では曹操の子曹丕(そうひ)が、漢の献帝を廃し、後漢を滅ぼし、洛陽に都して国号を魏と定めました。我が国でも人気の、三国時代の始まりです。翌年には、蜀の劉備が成都で即位し、229年には、呉王孫権が帝と称して、建業(今の南京)に都を定めました。234年、蜀の諸葛孔明が五丈原で病没しますが、邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と印綬・銅鏡を受けるのは、その四年後の事です。

「呉音」というのは地名に由来します。呉の孫権の時代から隋の統一に至るまで、六王朝が建業(南京=呉)に都したので、この時代を六朝時代と言います。六つとは、三国時代の呉・東晋、及び、南北朝時代の南朝の宋・斉・梁・陳です。

呉が滅亡すると、317年、西晋の丞相司馬睿(しばえい)が建業で晋王となり、翌年皇帝(東晋元帝)の位に就きました。それ以降、この地域は文化的に大いに開け、南朝に入ると、文化・芸術において、中心的役割を果たすようになりました。

420年、劉裕(りゅうゆう)が東晋の恭帝を廃して帝位につき、建康(=建業=呉)に都して、国号を宋(近代の宋と区別して劉宋とも言います)と定めました。この頃、大和朝廷は王が即位するたびに、周辺諸国に君臨する証として自ら「安東大将軍倭国王」と称し、宋に使いを遣わしていました。

要するに、この頃、大和朝廷と呉の国があった地域(現在の江蘇・浙江)との間に交流があり、そこから日本に入ってきた音なので、「呉音」と言われるようになったのです。「呉音」の多くは朝鮮半島を経由して入って来たので、朝鮮語の音も含まれていると言われています。また、「呉音」だけが存在した時代には、それは中国語と認識されていました。

〇漢音

その後、中国大陸では、589年、隋の文帝が陳を滅ぼして再び統一王朝が生まれました。隋は都を長安(現在の西安)に定めました。

大和朝廷は、隋と国交を開こうと考えたようです。

王多利思比狐(たりしひこ)が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや」との国書を持たせ、小野妹子を遣隋使として送り出したのが607年(『隋書・倭国伝』)の事です。この書を見た煬帝(ようだい)は、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿かれ(野蛮人の国書に、無礼な物がある、二度と上奏するな)」、と述べたものの、翌年、裴清(はいせい)を遣わし、裴清は倭国に到着して、大歓迎を受けました。

それ以降、日本からの遣隋使・遣唐使といった当時の留学生は、都の長安に行き、現地の言葉や文化を学ぶようになりました。

長安(陝西省)は、漢の恵帝(在位、前194~188年)の三年から六年にかけて築城された都で、唐の司馬貞の『史記索隠(さくいん)』によれば、四方六十三里(漢代の一里は約415m)、東西と南北にそれぞれ十二里ありました。政治と文化の中心地で、本場の中国語が話されていました。漢以降、長安に都した国は、前趙・前秦・後秦・西魏・北周・隋・唐等で、漢及び唐の時代に隆盛を極めました。

唐代に、我が国は国名を「日本」と改めました。『旧唐書(くとうじょ) 日本国伝』には「其の国日辺に在るを以ての故に日本を以て名と為す。或ひと曰く、倭国は自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」、と。「日辺」とは、日のほとり、太陽のあるところ。『新唐書 日本国伝』にも、「倭名を悪(にく)み、更めて日本と号す。使者自ら言う、国は日出る所に近し、以て名と為すと…。」、と。

日本では、養老四年(720年)5月、編纂が行われていた『日本書紀』が完成しています。同書によれば、我が国は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を始祖とする日の神の末裔が、地上に降臨して建てた国です。

『旧唐書』は後晋の劉昫(りゅうく、887年~946年)が勅命を奉じて著した唐の正史で、『新唐書』は宋の欧陽修(おうようしゅう、1007年~1072年)等が勅命を受け、劉昫の『唐書』の誤りを正し、不足部分を増補したものです。『日本書紀』からは約二百年ほど後の時代の書物ですが、唐の王朝が、我が国を「日本」と認めた事が記されています。

「日出ずる処の天子」「日没する処の天子」というのは対等ではありません。「日本」という国名も、その延長上にあります。この改名を、大唐帝国によくも認めさせた物だと思います。

また、同書には、唐に渡り才名を馳せた日本人の記述もあります。 

そのお話は、次回に。

本日が皆様にとって、好い一日でありますように。