社会が大きく動くタイミングで地方と都市の2拠点生活をはじめ、気がついたら縁もゆかりもない土地に住みはじめてはや2年。
その間、色々なことを考え、今に至ります。
結局のところ、地域の中で、自分という存在が、職業ではなく職能とともに認識された時に、幸せというものを感じるのかもしれない。そんなことを最近、考えています。
今日は、そんな、移住という選択肢の、現時点の結果について、書こうと思います。
木曽平沢と名古屋の2拠点生活の始まり。
筑波大学の教員を終え、見知らぬ土地名古屋で教員としての歩みを始めるタイミングで、
かねてよりお付き合いをしていた今の奥さんは、ここ、木曽平沢に移住してきました。
その距離、概ね、2時間半。関東で「陸の孤島」と呼ばれた筑波大学には、通勤で2時間以上かけていた先生も多かったため、我々の間では、「まぁ、それくらいの距離だなぁ。」という認識がありました。
月に1回か2回、僕が名古屋から通う形で、妻が行っている木曽平沢でのまちづくり活動のお手伝いをしていたのがだいたい2年間。その過程では、多くの方との交流の機会を持つことができ、信頼できる方に出会えたのは本当に大きかった。今回のお店で出展してくれたり、応援してくれたり、漬物くれたり、いろんな関係の方がいますが、本当に助けていただいています。
結婚を機に家を買い、1週間を名古屋と長野で半分こする生活に移行したのが、2020年の3月。ちょうど、コロナのスタートの時でした。
コロナ禍の移住生活
我が家は基本的に自主施工で改修を行っていました。空き家の間に荒れ果てた裏庭を開墾して畑も作り、休日には山菜や山仕事をしに山に入る。自分の手で、自分の暮らしを作る感覚は、田舎ならではの楽しみでした。
でもこれは、想像の範囲内。
意外だったのが、まちとの距離感。
大学の授業がオンラインになり、せっせとオンライン授業をとっていると、道に面した我が家では、3軒隣の子供たちが道で遊ぶ声が聞こえる。オンラインMTをしていると、ガラッと玄関が開けられ、友達の子供が入ってくる。そんな光景は、名古屋で一人暮らししている時には想像もできませんでした。暑くなってきて窓を開けて改修作業をしていると、道ゆく知り合いが話しかけてくる。まちとみちと建築の距離がゼロな町家生活は、不思議な時間でした。
まちの中に自分がいて、そこにいる人々との関係性に家がある。
社会に不安が蔓延する状況で、心強かった。
一方で、大学教員という自分の存在は、不思議なものでした。
地域の知人からは、「大学教員」という認識をもたれるのですが、これ、全然、自分の性格や能力と関係もない言葉だということに気付きました。ただの役職なんです。
ここ木曽平沢には、「漆器職人」が多くいます。彼らは、漆を塗るという技術がある人々だとすぐにわかるし、きっと手先が器用だったり、忍耐強かったりするんだろうと、想像が広がります。
僕自身は、家をなおすことや建築を考えること、山に入ることなど、たくさんの興味があっても、それが一切伝わらない。
だから、自分の職業をどう表現すべきか、考えるようになりました。
つとめるを考える
その中で、「つとめる」という言葉を考えるようになりました。
勤める、務める、努める...。
現代社会は少々、給料との関わりの中での仕事に重きを置きすぎているのかもしれません。庭に出て草を刈っていると、「おつとめご苦労さん!」と声をかけられることがあります。このおつとめ、は、お金を何も生み出さないけど、でも、他者からは評価を受けます。この務めという言葉は、共同体生活における貢献とも捉えられるわけです。みんなでの地区清掃、お祭り、その他諸々の集落行事がまだ残るこの地域での生活は、仕事の意味を考える時間でもありました。
自分ができることを他者に認識してもらうと、共同体生活の中でもその能力が発揮される場面にたまに出会います。それはつまり、勤めの能力が務めに役立つということ。この瞬間、仕事と暮らしが地続きになった感覚があり、どこか、人間生活の中でとても重要なものに出会った感覚がありました。
仕事の能力が誰かの役に立ち、その喜びをもっと得たいと思い、努める。
そんな、つとめの循環を意識した瞬間でした。
各々ができることを少しずつ出し合って、そのまちをより良くしていく。
少なくとも僕は、その一員でありたいと思いました。
だって、自分の住む街くらい、楽しい街の方がいいじゃない。
「住みたい街」は、ランキングに頼らなくても、自分たちで作っていくこともできる。
僕たちがお店をやる理由も、もしかしたらこういう所にもあるのかもしれません。
作るのが得意な人がいて、その魅力を伝えるのが得意な人がいる。
それぞれの得意で協力しあうこと。
それができたら、この街はもっと楽しくなる。
土-とおいち-も、そんなお店になったらいいな、と思っています。