こんにちは、株式会社四万十ドラマ代表取締役 畦地履正(あぜち りしょう)です。このプロジェクトで取組む四万十の栗について、私が若かりし頃に初めて栗の仕事に関わった当時を振り返りながら、この挑戦への想いをお話させてください。
これぞ日本の原風景春の「四万十川」
■あの頃の四万十の栗はすごかった
遡ること今から34年前、あれは私が23歳の時、地元の十川農協(現JA高知県十和支所)に就職した、昭和62年10月1日の出来事です。
地元を離れて進学・就職していたのですが、Uターンで再就職したJAでの初めて仕事が、なんと『栗の選別仕事』だったのです。
初出勤するや否や、「畦地君さっそくやけど、栗の作業手伝ってや!」と言われて、何もわからず上司についていくと、そこには栗をいっぱい持ってきている生産者がたくさん!!
大きくてあまい四万十の栗
今では考えられないのですが、その数量が半端なかったのを鮮明に思いだせます。そう、この時はちょうど“栗の最盛期”真っ只中だったのです。
まず生産者は、栗を大きさ別に分けて重さを計ってJAに納品。それをスタッフが品質チェックの選果機に入れて、虫食いや病気があれば除去します。
大きさの選別と虫食いや病気がないかの品質チェック
そして更にその機械で大きさ別にもう一度選別し、規格別の10kg箱にいれて出荷。箱入れ出荷が終わると、今度は30kg入りの通称「どんころす」という袋に入れるのですが、これが重たいのなんの!
当時はまだ私も若かったので何とか体力が持ったけど、今では到底無理でしょう(笑)ものすごい数量と重さにも関わらず、40歳を超えた先輩達は軽々と30kgのどんころすを持ち運ぶのが眩しかった記憶があります。
当時の1日平均出荷は、何と5t以上!シーズン中のピークで一番多い日には、その倍の10tを超える日もありました。とにかく、朝から晩まで栗・栗・栗で、選果して選別して担いで出荷の繰り返し。1ヶ月間の出荷で、十和地区だけで150t以上、四万十川流域で合計500t以上が出荷されていました。
(毎日クタクタになったあの頃が、今ではとても懐かしい。)
■そして、30年後のいま。
あれから30年以上の歳月が過ぎた現在、500tあった栗も30t前後に激減し、生産者の高齢化や後継者がいない状況となりました。
生産者の平均年齢も、気が付けばもう70歳以上。傾斜のきつい山の栗畑の管理は、高齢ではなかなかの重労働で、栗が拾えなくなってきたという声が徐々に多くなりました。
傾斜地の栗園と高齢のベテラン農家
この現実は、もう避けては通れない。
四万十の栗の認知度も上がり、全国的に知られるようになってきたが、さらにここから5年後・10年後を考えると...
いまはまだ現役の70歳の方も、10年経てば80歳。いつまでも元気ではいてほしいが、10年後に栗園の下草刈りや栗拾い、そして剪定をできるのか?
しまんと地栗のピンチは、もう目の前まで来ているのです。
頑張っている生産者は引き続きして応援していきますが、それだけでは限界が見えてきました。
■目指すは地域農業の課題解決
また、栗だけに限らず同じように他の田畑の管理もできなくなっており、耕作放棄地や遊休農地が地域で目立つようになったのです。
「もう年取って。田んぼも畑をよう世話できんなったけん使ってや。」
「息子らぁも多分帰ってこんし、ほっちょいてもいかん。うちの畑でなんか作ってくれんかえ。」
もはや、こんな話が日常茶飯事です。
今回のプロジェクトで実際に栗管理を担う、㈱しまんと流域野菜が事業を開始した3年前には、まず1haくらい畑を借りて栽培を始めたところ、あれよあれよと面積が増え、いまでは3ha以上になる圃場を借りて管理させてもらっています。
借りた土地で農作業する研修生の佐藤君
このような地域の課題解決をすることも含めて、しまんと流域農業プロジェクトがスタートしたのです。
まずは、栗の木を植えることからスタート。生産者と共に、10年間で10haに栗を新しく植え育てていきます。しかし、すぐには収穫ができないので、植えてから最初の5年間は栽培管理に費用がかかるばかりで、現金化ができません。
でも、地域のために今やるしかないのです。
ぜひ、栗の木のオーナーになっていただき、四万十を応援してください。よろしくお願いいたします。