こんにちは
鈴木彩花です。
今回は大阪から参加している佐々き み菜さんの活動報告です。
み菜さんのテキスタイルの作品には
ゆらゆらと包み込まれるようなおおらかさがあります。
同時に、作品を纏い行うパフォーマンスでは
ひとではないような不思議な存在感と迫力を感じます。
昨年は祭りの最初に起こした火を、最後に湖にお返しする
水沈めの儀をみ菜さんが行いました。
どのようなことを、長野の地や原始感覚美術祭から感じているのでしょうか。
それではどうぞ
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2017年から原始感覚美術祭に参加している、佐々きみ菜といいます。
「胎内回帰」などをテーマに繊維を使った作品を作ったり、作品を着用してパフォーマンスを行ったりしています。
わたしが初めて原始感覚美術祭の存在を知ったのは、2014年にたまたまTwitterでポスター画像を見かけた時でした。
湖面に植物で作られた美しい曲線が浮かんでいる、素敵な作品の写真で「なんだか分からないけれど、ここに行かなければ」と思ったことを覚えています。
美術祭が行われているのは、長野県大町市の木崎湖という湖の周辺です。
はじめて無人の稲尾駅に降りて、田んぼ道からまっすぐ木崎湖へ向かったとき、懐かしい場所へ帰ってきたような感覚がありました。
小熊山と権現山に辺りをぐるりと囲まれて、
空と山と湖の世界に立っている自分がいて、
優しい風が肌を撫でる。
穏やかに揺れる湖の水がひたひたの羊水のように思えて、
お母さんのお腹の中にいるような、不思議な心地がしました。
わたしにとってはそんな特別な場所ですが、
原始感覚美術祭を通して毎年木崎湖へ帰ってくる他の人たちもまた、それぞれ特別な想いをもって集っているように感じます。
祭として、即興表現の割合が多くなっている美術祭ですが、そこにはそれぞれの人が、そのままの姿として存在することがゆるされているような"おおらかさ"があります。
自分が自分として、ただそこに在ること。
そのままの自分と、そのままの人々が交わる空間は、独特な雰囲気とともに、呼吸のしやすさ、のようなものがあります。
しかしそれは反対に、自分自身に真剣に向き合って、本来の自分の姿でいることが求められる、誤魔化しのきかない"鋭さ"のようなものも、同時にあると思います。
人によっては、この鋭さに強烈な刺激を感じることもあるかもしれません。
現代社会で育ち、日々生きているわたしたちは、自分でも気づかないうちに、本来の自分の姿かたちを変えてしまうようです。
それが私たちが生きづらさを感じる根源ではないかと思います。
社会に沿って自分のかたちを変えることを、簡単に悪いとは言えません。
それぞれに必要があって、そのかたちになっていると思うからです。
でも、だからこそ本来の自分の姿に向き合う人々の表現に触れて、ときどき、本来の姿を思い出すことはとても大切だと感じます。
木崎湖という場所に自分の身を運び、
そこに集う、本来の自分に向き合い続ける人々に出会うこと。
そこには豊かな時間があります。
そしてその瞬間、その場に立ち会わなければ、何が起きるか分からない。
そんな面白さがあります。
"おおらかさ"と"鋭さ"を内包する原始感覚美術祭は、本来の自分の姿を見つめるには、
よいきっかけとなるかもしれません。
ぜひ、このプロジェクトで原始感覚美術祭を知った方々にも、足を運んで頂けたらなと思います。