蔵元復活 の付いた活動報告
皆様、いつもおせわになっております。世嬉の一酒造の代表の佐藤航です。おかげさまで酒蔵復活・地酒復活プロジェクトの仲間 300名様というNEXTGOALをクラウドファンド募集期間4日残して達成しました。本当にありがとうございます。私どものは、将来の地域の事、私たちの会社の事、様々な面を考え、この地域で酒蔵復活・地酒復活というものが必要だと考えていました。コロナ禍で当社の中心だった観光業や飲食業が厳しくなればなるほど、その思いが強くなってきました。この2年間、交流人口が極端に減少し、人の往来が減ったため、地域の食材を使用するレストランでは仕入れが激減し、雇用の維持も厳しくなっていました。そんな中、この地域に昔からあるもので、地域の産業(農業)と深くむすびつくもの、そして現在行っている県外、海外に出荷してもより独自性のあるの・・・未来に向かって希望が持てるもの・・・それが、この新工場と地酒復活プロジェクトでした。私たちは、今日本で新規で取得が事実的に不可能な清酒の醸造免許を持っています。私が実家に戻った日、いつの日か酒蔵復活をしたいと思い、会社に戻ってきました。会社の存続のため、共同醸造に切り替え、工場をリノベーションし世嬉の一を存続させた先代と先代の妻も、いつか酒蔵を復活させようと歯をくいしばって、その当時に借金を返しながら存続させ、ある程度軌道にのせて会社を次世代に託しました。その先代たちも酒蔵復活を強く願っていました。※先代社長 佐藤晄僖(左・・蔵をリノベし蔵を守った)妻 紘子(右・・郷土料理レストランを成功させ地域食文化を発信・発展させた)今回、長年の思いと未来に向けて、必要と感じた酒蔵・地酒復活プロジェクトがスタートし、工場の形も徐々にできてきました。補助金の申請もおり、いざスタートすると、世界情勢が急変しまた。そのため、工事費の増大や物資の到着の遅れ、また地震の被害(3月の宮城福島地震)など・・・スタートすればするほどハードルが出てくるような感じです。コロナ禍で業績が激減している状態でのハードルの出現は、ボディブローのように徐々に私たちの体力と気力を奪っていくようでした。まるで、何か、神様に本当にやる気があるのか???と試されているような気分でした。そんな時、このクラウドファンドを通じて多くのお客様からご支援をいただき、特にメッセージをいただき、本当に心の支えになっています。そして様々な葛藤がありましたが、今、酒蔵・地酒復活プロジェクトがスタートを切れそうです。あらためて皆様にお伝えします。本当にありがとうございます!!!感謝でいっぱいです。でも、まだファンドも終わりではありません。最後まで仲間づくりはがんばって広げていきたいと思います。そして、本当の勝負、地域の酒造りはまだスタートしてません。これから保健所の調査や税務署への工場の届け出などまだまだあります。引き続き、このブログ等でご報告していきたいと思います。一旦、300名様達成本当にありがとうございます!これからも引き続きよろしくお願いします。----PR----下記のセットが大人気です!残り4セット〇世嬉の一未来に応援セットF(22,000円)お申し込みはこちら残り3セット〇世嬉の一未来に応援セットG2(35,000円)【頒布会1年分】お申し込みはこちら残り2セット〇世嬉の一未来に応援セットH(55000円)【頒布会】お申し込みはこちら〇世嬉の一すぐに応援セットC(10000円)こちらは残り5セットです。お申し込みはこちらよろしくお願いします。
昨日、上京して酒のデザインの打ち合わせに行きました。今度の清酒工場でできるお酒のデザインをお願いしているのが、LANDOR&FITCH 東京様です。LANDOR様はよく皆様が目にしている会社のブランドや企業、オリンピックなどデザインする会社様で、世界に何拠点も事務所をもつデザイン会社です。本来、僕らのような零細企業がお願いできるようなデザイン会社ではないのですが・・・様々な出会い、ご紹介からデザインしていただけることになりました。当社としては、本当に恵まれているなぁということと、感謝しかありません。LANDOR様のHPはこちらhttps://landor.com/ja/ランドー様との出会いはビールブランディングからです。当社でおこなっている「いわて蔵ビール」というブランドがあります。このリブランディングをLANDOR様のご好意で行っていただきました。ワークショップや様々な取り組みを行い、新しい「いわて蔵ビール」ができました。そこから僕らのビールブランドの価値があがり、今海外でも展開されています。その際のワークショップの様子が記載されています。http://creativeport.landor.co.jp/2020/06/10/kurabeer/その後、当社のクラフトコーラ、「KOHARU COLA」のデザインをしていただいたのもランドー様です。LANDR様には、いつも僕たちの思いをいろいろまとまらず話していることを聞いていただき、形にしてくれます。デザインって通訳者みたいだなぁと思います。私達はモノづくりにおいて様々な思いや考え、思い入れ・・・沢山こめて醸造しています。ただ、それはお客様にお伝えするのが難しくなかなか伝えずらいものです。ただ、このデザインを説明していくうちにわかるというか・・・見ていると感じてくれるお客様もいるというか・・・そんなこともあり、本当にすごいなぁと思っています。ただ単にかっこよくではなく、私たちの考えをデザインという形で表現してくれる・・・そんな感じです。今回は、清酒 世嬉の一のブランディングをお願いしており、そのご提案をいただきにお伺いしました。一言でいうと、すごーーーーい!よかったです。ちょっとお披露目会まではお見せできないのですが、もう、ワクワクでしかありません。モザイクならぬ、ちょっと見えにくくしていて申し訳ございませんが、私たちの思いののった素敵なデザインです。皆様も好きになっていただけると思います。コンセプトは「結ぶ 結いです。」素敵ですよ~工場内覧会および、お披露目会もご支援者中心に行いたいと思いますので、ぜひ楽しみにしてください。世嬉の一酒造は40年ぶりの酒蔵復活に向けて、多くの人々に助けられて進んでいます。それが、私達のような小さい企業とは不釣り合いの素晴らしいところからご支援いただき、感謝と共に、かなり恐縮するのですが・・・・ワクワクがもう止まりません。ぜひ皆様と共に創り上げていきたいと思いますのでよろしくお願いします。今日も世嬉の一スタッフは皆様と共によりよい未来に向かって進んでいます。
昨日、アメリカで日本酒、クラフトビール、ジンや日本の食文化を紹介・販売するスズキマーケティングのリチャードさん(中央)が来てくれました。アメリカから来日されていたので、当社にお寄りいただきました。もちろん、酒蔵の見学と今後の展開についてディスカッションのためです。紺色のTシャツの男の子は、元当社の社員の今野君。当社で蒸留の仕事やビール醸造を行っていましたが、奥様がアメリカ出身で、家庭の事もあり奥様のご実家に行くことになり退社した若者です。彼から、会社を続けたいけど、家庭も大切だから、奥様のために退社して渡米すると相談を受けました。その時に、今野さんと話しているうちに・・・以前、JETROの商談会でサンフランシスコでお会いした、スズキマーケティング様を思い出したのです。そこでひらめきました!今野さん、うちの酒とかビールをアメリカで紹介できる仕事をしたらと・・・彼も乗り気になってくれました。さっそく、スズキマーケティングの鈴木様とFaceBookでつながっていたので、さっそくZOOMで今野さんを雇ってくれないか、もし雇わらなくても勉強させてくれないかと頼んだのです。スズキマーケティング様も快く引き受けてくれて、そこから準備が始まっています。工場できる前に、なぜかアメリカの販路ができた瞬間でした(笑)リチャードさんは非常に気さくな方ですが、酒に関しては造形が深く、アメリカのライフスタイルにあう、日本酒の開発、古酒の開発、スパークリング酒の開発など様々、ディスカッションしました。今野さんも真剣に聞いてくれました。もちろん私も今後醸造する酒のイメージや思いなどを話し、ぜひ完成したらお願いするという約束をしました。さて、地酒復活なのですが、なぜ日本酒も地元だけでなく遠くアメリカ等に販売しようとしているか記載します。私達、世嬉の一酒造は、「いわて蔵ビール」というクラフトビールを醸造・販売しています。そして実はいわて蔵ビールはアメリカに2005年から輸出しています。最初は、1年間に5ケース120本の出荷でした。アメリカ西海岸のレストランオーナーがたまたま東京で当社のビールを飲んで仕入れたいというところからスタートです。そこから、17年、コロナ過では一時ストップしましたが、今は年間4000ケース以上出荷しています。最初は、地ビールが売れず、また地元からも地ビールなんて・・・といわれていた時代に、地域が自慢できるビールにしたい。また、スタッフたちにも自分たちのつくっている商品に自信をもってもらいたい。そう思って、クラフトビールの本場、アメリカかヨーロッパに輸出したいと思っていました。おかげで、今は順調にビールのファンも増え、スタッフたちも自信がついたと思います。実は、地酒も世界に通用するブランドにしたいと思っています。会社の利益や出荷量を大きくするために輸出するのであれば、当然、アジア、特に中国に輸出するのが経営として正しいのかもしれませんが、私達はアメリカがいいと思っています。僕らは、量や利益を求めすぎるのではなく、程よい量と適正な利益が得られればいいと考えています。それよりも重要なのは、地域の酒(ビールはジンも含みます)が世界で評価され、それが働く人、地域の人のプライドになることが大切と考えています。そう考えると、新しい文化の発信拠点は世界でもNYやパリになります。なので、スズキマーケティング様とのご縁もできたので、様々準備しています。地元を大切に、だけど世界に発信する清酒 世嬉の一にしたいと思います。あと、もう一つは、スタッフとの出会いです。僕の経営の信条に「私もスタッフも良い人生をおくる」という考えがあり、常にスタッフにも話しています。今野さんが入社したときは、醸造に関してかなり期待をして、今後一緒にやっていきたいと本気で考えていましたが・・・彼にも家族があり事情があります。でも単純にいいやつだったということで切れることなく、今は新しい事業に向けて頑張ってくれています。会社の全体会議で、アメリカに支店?会社つくるよとみんなに話した際、みんなぽかーんとしているのを覚えています。実際にどうなるかわからないのですが、今野さんが渡米することは事実なので、世嬉の一として応援していきたいと思います。工場が出来上がる前ですが、どんどん夢が膨らんできます。これもひとえにご支援してくれる皆様がいるから、心配よりワクワクが勝っています。本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
この写真は、三代目の父と母です。倒産の危機の酒蔵をなんとか生き伸ばし、今の世嬉の一の土台をつくったのがこの二人です。私達は、今父母と私が念願だった、酒蔵復活、地酒復活プロジェクトがスタートしました。私が生まれたころ祖父が酒蔵を経営しており、父は祖父がスタートさせた新規事業である自動車学校を運営していました。時代は第二次ベビーブーム、自動車学校は順調に伸びていったのですが、酒の販売はどんどん衰退していったようです。私が小学校の時、日々奔走していた祖父が脳溢血で急逝してしまいます。その際、父と叔父が世嬉の一の決算をみたら、とっても経営できる状態ではなかったようです。具体的な金額はおいておきますが、年商の10倍の借金をしていたようです。当然、父も叔父も酒屋は廃業、バブル期だったこともあり、この地を貸してほしいという企業がたたあったそうです。敷地が1500坪以上あるので、スーパーやシティホテルなどいい話が沢山あったようです。その際の賃料を聞くと非常にいい条件だったと思います。父も叔父も酒蔵を廃業して蔵を壊し、土地を貸す予定だったそうです。そんな中、祖母が「蔵を残してほしい」この蔵の風景を残してほしいと父に願い出たそうです。借金も多く酒も売れず、地域からは来月倒産するといわれている蔵を残す・・・当時私がいたら絶対できない判断です。「しょうがないでしょう・・・」と言ったと思います。しかし、父も「もったいない・・・経済的には蔵を壊し廃業するのが正しいけど、心が痛む」と思ったそうです。そこで、何を思ったか、好調だった自動車学校を売却し、その資金で運転資金と借入金返済のめどを立てたそうです。周りからは、気違いだとか、金持ちの道楽といわれていたそうです。さらにやっぱり来月にはつぶれるらしいぞという噂があったそうです。父もしばらくの運転資金はあったとは言え、酒の収入では厳しいのと、当時もう倒産するといわれている酒蔵だったので、どの酒屋さんも卸屋さんも取引してくれなかったそうです。そこで、酒の醸造を共同醸造(他社と一緒に醸造する形)に変え、蔵をそのままに直売所、酒の民族文化博物館、レストランに改築しました。計画的にというわけでなく・・・直売所にしたのは、取引先がないので自分で売るしかなかった。レストランは、借金を返済するのに日銭商売をするしかなかった。博物館をつくったのは、地域に博物館がなかったからだそうです。今見ると綺麗になっていますが、創業当初の蔵の外観はそのままです。蔵を残し活かしたのは、この蔵を設計したのが、小原友輔さんという方で、あの東京駅を設計した辰野金吾さんのお弟子さんの蔵だったのです。周りからは当時ずいぶん冷ややかな目で見られていた父母でしたが、数年後に国の登録指定文化財に指定され、残してまちがっていなかったと感じたそうです。いまでいう、リノベーションを行って順調にいったかというと全然そうではなく、製造業から慣れないサービス業になるのがかなり大変だったようです。母は、専業主婦からレストランの女将になり、大変だったようです。中学、高校の時は父母とも一緒にすんでいたのですが、ほぼ家で会うことが無く、毎朝5時から夜中まで働いて生活していました。当時は醸造再開などという余裕もなく、明日を生きるということ、借金を返すということに明け暮れていたようです。ただ、一生懸命働く父母を見ていて、多くの助けてくれる人が表れ、レストランは郷土料理レストランに、直売所にも観光客を派遣してくれる業者さんなど、徐々に世嬉の一が持ち直してきました。町おこしも父母は一生懸命おこなっていたおかげで、地域の人たちからもだんだん認められるようになったそうです。私が30歳で実家にもどるようになったときには、世嬉の一さんの息子さんといわれるようになり、つぶれるとは言われませんでしたが、それまでの父母の姿を思い出すと感謝しかありません。よくやっていたなぁと思います。父は町おこしも一生懸命で法改正があった際に地域の経営者と地ビール事業を始めます。今の「いわて蔵ビール」です。最初の三年はよかったのですが、その後会社の大赤字部門になり結果私が実家に帰ることになるのですが・・・今は会社を支える部門に成長しました。少しづつ経営が安定してくると、やはり酒蔵復活の思いがでてきます。過去なんどかやろうということになったのですが、その都度、宮城県沖地震、岩手宮城内陸地震、東日本大震災と震度5~6強まで経験し、蔵が壊れ、それを修復するのにまた借金と返済をくりかえしていました。ちょうど10年ごとに地震は来ますね( ;∀;)(東日本大震災で蔵の崩壊に呆然とする三代目)毎回、蔵を修復して維持するのに、祖母がもったいないといわれたからと言いつつ、なぜだろうといつも思っていました。蔵の修復には通常の建築より費用がかかるので・・・父から会社を引き継いだ時、一つの約束をさせられました。「蔵を残しなさい。たとえ借金してでも残せるなら残しなさい、この蔵の風景は一関の景観であり、資産であるから。たまたま世嬉の一が維持しているだけなので、この風景を次の代、孫の代まで残せるようにしなさい」と約束されました。確かに、私たちの蔵の前を往来する園児、小学生、中学生、高校生がいます。高校を卒業すると98%市外に出ていってしまう地域ですが、この蔵の風景を残すことが彼らの故郷の風景を思い出と共に残すことになります。父母のそのような思いから地震の度に蔵の修繕を優先し、酒蔵復活、蔵元復活、地酒復活はのびのびになっていましたが、いつかやろうとおもっていたプロジェクトなのです。今やっとスタートラインに立つことができ、多くの人から現在も支援していただいています。私も、父母もスタッフも嬉しく思います。酒蔵が復活しても父から引き継いだ考えを実行していく場として清酒工場を活用していこうと思います。私なりに引き継いだ考えは、下記の3点です。「根本・長期・全体」でみる。「根本:目先の利益にこだわらず、良心にいいなぁとおもうことを行うこと」「長期:今だけでなく、子供の世代、孫の世代にとっていいことを行うこと」「全体:自利ではなく、家族、地域にとっていいことを行うこと」父母から教わったこととして、私個人の判断基準になっています。今回の酒造り復活もこの3点からこの地域に必要なこととしてちょっと無理して実行しています。今後とも何とぞよろしくお願いします。