音楽史をまとめて行きますと、作曲家やその関係者の間に不可解な謎がいくつか現れました。音楽史原稿は最初にモーツァルトに取りかかりましたが、モーツァルトは初めてウィーンを訪問した折には、ウィーン宮廷に招かれ女帝マリア・テレジアやその夫の皇帝フランツ・シュテファンから歓迎されましたが、2回目のウィーン訪問以降、マリア・テレジアから歓迎された様子はなく、イタリアのミラノではフェルディナンド大公の婚礼祝典オペラ「アルバのアスカーニョ」K.111が大成功を収めたにも関わらず、マリア・テレジアはフェルディナンド大公にモーツァルト父子を侮辱する手紙を送りました。
マリア・テレジアはオーストリー国民からは国母として慕われていますが、モーツァルト冷遇の原因は何だったのか。一般に言われているように、婚礼祝典時に同時に上演されたマリア・テレジアの音楽の師であるハッセのオペラが不興に終わり、ハッセが気の毒だという理由だけではないように思われます。
この原因を探るために、なぜマリア・テレジアが国民から慕われているのかということを理解するために、オーストリア継承戦争、7年戦争についての資料を作成しました。オーストリア継承戦争では、マリア・テレジアは若くして皇帝であった父カール6世を亡くし、しかもカール6世の跡継ぎがいない状況の中で四面楚歌に陥り、しまいには神聖ローマ帝国皇帝位を親戚にあたるバイエルン選帝侯に奪われてしまいました。ハンガリー王となっていたマリア・テレジアはハンガリー軍の援軍を得て、バイエルンと戦い、皇帝位を奪い返し、夫のフランツ・シュテファンを皇帝位につけ、オーストリア・ハプスブルク家を再興しました。これによりマリア・テレジアは国民から国母と慕われるようになりました。そして、ハプスブルク家の皇帝位継承を盤石なものとするために、これまで敵対してきたフランスと同盟を結ぶという外交革命を行いました。そして、長男のヨーゼフの妃に、フランス王ルイ15世の孫でありスペイン王フェリペ5世の孫でもあるパルマ公女イザベラを迎え入れ、娘のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)を次期フランス王ルイ16世に嫁がせるなどの婚姻政策を進め、7年戦争では、オーストリア継承戦争では数少ない同盟国であったイギリスとは縁を切り、フランスに加担しました。
このような時期に、モーツァルト一家は西方大旅行で、イギリスにまで足をのばし、ロンドンの王宮を訪れ、オーストリーと敵対するプロイセンと同盟を結んでいたイギリス国王ジョージ3世から暖かくもてなされたという話は、マリア・テレジアを不快にさせたと思われます。話が、長くなりそうなので続きは、本編の音楽史関連記事で述べて行きます。
SEAラボラトリ 早川明