モーツァルトはヨーロッパ各地を旅し、いろいろな音楽様式を吸収し作曲に生かしてきましたが、ウィーンに定住してからは外交官としてヘンデルやバッハの楽譜の収集を行ってきたスヴィーテン男爵のもとに通い、フーガなどのドイツの対位法の研究に熱心に取り組むようになりました。
モーツァルトがウィーンに定住したころは、女帝マリア・テレジアが亡くなり啓蒙主義者の皇帝ヨーゼフ2世の治世が始まったころにあたり、ヨーゼフ2世はこれまで敵対してきたプロイセン王のフリードリヒ2世と和睦を行い、これまで封印されてきたドイツ音楽が解禁された時代でした。教会音楽は教会以外での演奏が禁じられていましたので、主に器楽曲が持ち込まれました。モーツァルトはフーガやカノンなど中世・ルネサンス時代のポリフォニーの影響を強く残すこれらの音楽に魅せられ、研究を深めますが、これによって後期の偉大な作品群が生まれることになりました。
皇帝ヨーゼフ2世は母親のマリア・テレジアとは確執がありました。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争以来、徹底してプロイセンのフリードリヒ2世に対抗しましたが、ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世の啓蒙主義的な考えにあこがれを持っていました。これは、プロイセンとの関係が深かったフランスのルイ15世の孫で妻となったイザベラの影響によるものと思われます。ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世と同様に結社フリーメイスンを容認しますが、フリーメイスンの教義は「自由・平等・博愛のもと理想世界の実現をめざす」とされ、やがてこの教義はフランス民衆に支持されフランス革命の動乱へと展開して行きます。
ヘンデル、バッハの音楽に傾倒したモーツァルトはやがてポリフォニーに回帰します。すなわち、音楽の各声部は自由で平等でなければならず、各声部はお互いに尊敬されなければならない、モーツァルトはバロック音楽以来の伴奏と旋律というモノフォニー的な作曲技法から、アンサンブルをよりポリフォニー的なものに進化させました。その成果として、室内楽の最高傑作であるハイドンに献呈した6曲の弦楽四重奏曲や後期のピアノ協奏曲が生まれました。これらの曲では弦楽器、木管楽器の各声部、そして独奏のピアノまでが独立した声部として自由で平等で博愛の精神により構成されるという、音楽史上まれにみる傑作が生みだされました。
モーツァルトがバッハの教会音楽を聴いたのは、1789年4月ライプツィヒの聖トーマス教会においてでした。この時にバッハのモテットBWV225を聴き、楽譜に目を通しています。モーツァルトは「ここにはまだ学ぶべきものがある」と言ったといわれていますが、モーツァルトの最後のオペラ「魔笛」の夜の女王のアリアはまさにバッハのモテットを思い起こさせます。
SEAラボラトリ 早川明