音楽留学のためにウィーンに出てきたベートーヴェンは、訪英の準備に忙しいハイドンにはなかなか十分な指導を行ってもらうことはできず、対位法などをハイドンには隠れてシェンクやアルブレヒツベルガーなどに師事しました。ベートーヴェンのピアノ演奏はたちまちウィーンの貴族たちを魅了します。作曲においては、ピアノ三重奏曲やピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲などを次々と発表し、1798年にはウィーンを占領下に置いたフランス全権大使ベルナドット将軍と交流し、フランスの共和国の建国精神に感動したベートーヴェンは将軍から英雄交響曲作曲の依頼を受けたようです。ベートーヴェンは英雄交響曲の作曲構想時から3曲セットの交響曲を意識していたように思われます。
第1交響曲は自らをウィーンに留学させてくれたボンの恩人であるマクシミリアン・フランツ選帝侯のために作曲されます。しかし、ボン宮廷はフランス軍の攻撃で消滅し、マクシミリアン選帝侯は各地を経由して、ウィーンのシェーンブルン宮殿近くのヘッツェンドルフに落ち着いていました。ケルン大司教でもあった選帝侯は聖職者として伴侶を持つことはなく、孤独な晩年を過ごし、ベートーヴェンが第1交響曲を出版する前に亡くなります。ベートーヴェンは交響曲第1番を、マクシミリアン選帝侯に代わり、セバスティアン・バッハのピアノ曲の演奏を賞賛してくれたスヴィーテン男爵に献呈します。
ベートーヴェンはウィーンで多くのピアノの弟子に教えていましたが、1899年に姉のテレーゼとともにウィーンに来てダイム伯爵と結婚したヨゼフィーネには結婚後もピアノを教え続け、毎週ダイム家では夜会が催されベートーヴェンはピアノ演奏を行っていました。この夜会に登場したのがヨゼフィーネの従妹であり、イタリア・トリエステ生まれの17歳の美少女ジュリエッタです。ベートーヴェンはジュリエッタにもピアノを教えますが、たちまちこの美少女に魅了されます。ベートーヴェンはジュリエッタから贈られた手のひらサイズの象牙の肖像画を生涯秘蔵していましたが、このような肖像画が贈られるほど二人の仲は深まります。
ベートーヴェンはジュリエッタに月光ソナタ嬰ハ短調Op.27の2を贈り、また構想していた3曲セットの第2番目の交響曲ニ長調をジュリエッタのために作曲したものと思われます。第2交響曲はイタリアの陽光が燦燦と降り注ぐように喜びにあふれ、またジュリエッタのコケットな性格が現れています。しかし、二人の恋は実りませんでした。ジュリエッタは若い貴族のガルレンベルクと結婚します。おそらく、貴族と平民という身分差が影響したものと見られます。経済力のないガルレンベルクと結婚したジュリエッタは1年も経たないうちに、ベートーヴェンに泣きついてきましたが、ベートーヴェンはこれをはねつけます。
1803年、交響曲第2番を初演したベートーヴェンは壮大なフィナーレを持つ英雄交響曲の作曲に取りかかります。
こうして、ドイツ・ライン地方の思い出と作曲家としての出発の想いを表した交響曲第1番ハ長調Op.21、イタリア生まれのジュリエッタのための交響曲第2番ニ長調Op.36、フランス革命の自由・平等・博愛の勝利の交響曲である交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55の、ドイツ、イタリア、フランスにちなむ3曲セットの交響曲が誕生しました。
SEAラボラトリ 早川明