こんにちは、バリュープラス アーカイヴ プロジェクトです。
先日動画として発信した三池敏夫さんインタビューの全文を、こちらの記事で公開いたします。
三池さんは特撮美術監督として、ゴジラシリーズ、ウルトラマンシリーズ、平成ガメラシリーズと数多の特撮作品に中心スタッフとして参加してきました。また近年は、認定NPO法人ATAC(アニメ特撮アーカイブ機構)の発起人の一人として、残された特撮作品の資料を保存・研究するアーカイブ活動にも積極的に取り組まれています。
今回はその三池さんに、発掘されたピープロ特撮4作品のフィルムを実際にご覧になっていただきました。そして、
ピープロ特撮そのものの魅力、
その写真資料としての価値、
そして特撮作品の資料アーカイブの意義について、
様々な観点で語っていただきました。
──これらのフィルムを保管していたのは児童向け雑誌「冒険王」を発行していた秋田書店です。三池さんも当時は「冒険王」をはじめとする児童雑誌は読まれていましたか?
三池 雑誌もいくつか種類がありましたから、それらを全部は買ってないですけど、「表紙が良いな」と思って買うようなことはありましたよ。実は今も残していて、実家にあります(笑)。九州は熊本なんですけど、大事に取ってあるんですよ。
──ネットがある現在は、「何話にどの怪人が出てきたのか」など簡単な情報であれば誰でも即座にアクセスできます。しかしネットが存在せず、映像ソフトの登場以前で映像自体も繰り返し観ることができない当時は、そういう書誌情報が生命線ですよね。
三池 そうです、情報発信自体が本当に少なかったですから。そういう子ども向けのテレビ番組情報誌みたいなものは、やっぱり頼りにしていました。当時印象に残っていることとして、他社の話になりますけど「週刊少年マガジン」とかは、雑誌の最初の方にカラーのグラビアページが結構あって、そこで色々な特集をするわけですよ。怪獣ブームの時には怪獣が表紙になったり、グラビアページでも結構良いカラー写真で載っていたりしていた。
そういう中で、完成作品では見えてはいけない、スタッフが写っているような写真もちょこちょこ出てくるんですね。それを見て、子どもながらに「やっぱりこういうものを作っている人がいるんだ。そういう仕事があるんだ」ということを知るきっかけになりました。完成作品の映像とは違うんだけど、そういう写真も魅力的でしたよね。怪獣を作る人がいるとか、怪獣の中に人が入っているとか、それを動かす人がいるとか、そういうことはそこで知るわけですよ。
『快傑ライオン丸』より。
ミニチュア撮影の様子。おそらく第27話「大魔王ゴースン怒る!」で、ゴースンが巨大化しゴースン島を突き破って登場する場面だろう。ゴースンのアクターは遠矢孝信。完成映像より右に寄ったアングルのためか、右側にスタッフが写り込んでおり、まさに「見えてはいけない」舞台裏の一枚。
──大人になって作り手の側に回った三池さんにとっても、児童雑誌やそこに載っている写真からの影響は大きかったと。
三池 第1次怪獣ブームの頃にはテレビ雑誌はまだ無くて、「少年マガジン」とかの漫画雑誌の表ページに特集されているぐらいだったんです。でも70年代に入って第2次怪獣ブームの頃になると、「テレビマガジン」(1971年創刊、講談社)とか「テレビランド」(73年創刊、徳間書店)とか「てれびくん」(76年創刊、小学館)とかが出てくる。これらは本当にテレビ番組の紹介が主体になっていて、カードとして切り取れるおまけだったり、ちょっとした小冊子になっている付録だったりもあって、色々な作品の色々なキャラクターをどんどん頭に入れられる雑誌なんですよ。それらを読んで、みんな怪獣博士・怪人博士になっていくわけです(笑)。
──三池さんが特撮にのめり込むきっかけも、そういう児童向け雑誌などの子ども文化に存在したわけですね。
三池 そうですね。それ以外の情報はなにも無いですから。一般の雑誌とかには、そんなキャラクターものの写真なんか一切載らないんですよ。児童雑誌だけが情報源でしたよね。
『風雲ライオン丸』より。
撮影の見学だろうか。ライオン丸を囲んだ大勢の子どもたちの記念写真。当時のヒーロー作品と子どもの関係性を示す一枚だ。よく見ると子どもたちのうち半数ほどが女の子なのも興味深い。この写真を見て「ここに写っている子どもは当時の自分だ!」と思われた方は、是非ご一報ください。
【第四回に続く】